昨日は結婚記念日でした。
それとは別に、私にとって大事な日でもありました。
あれから8ヵ月。
東日本大震災からこんなにも月日がたったなんて・・・
8ヵ月かぁ・・・。
早いなぁ。
いつかこのブログで書く日がくるとは思ってましたが、
昨日少し触れたので書かせて頂きます![]()
私の実家は、宮城県仙台市若林区です。
若林区でも沿岸部の方です。
あの日、
地震が発生し、異常なほどの長い揺れの中、
妊娠7ヶ月の私は、大きいお腹と坊を抱きかかえて家の柱にずっとつかまっていました。
人生で最大の揺れを体験しました。
今までは実家で体験した、
北海道南西沖地震の震度4が最高だったので、怖すぎた。
揺れの長さから、
どこかで大きい地震が起こったのは直感し、
すぐにTVをつけ、愕然としました。
『宮城県震度7。若林区震度6強。大津波警報。』
すぐ両親の携帯に電話したけどつながるはずがなく・・・
30分後に母から避難したとメールがありました。
関東でも五分おきに余震があり、
坊にはずっとヘルメットをかぶせてました。
外も騒がしく、
すぐに逃げられるように、
リビングの窓を開けてました。
16時前、弟が身重の私を気遣い、駆けつけてくれた矢先・・・
TVで地元のさらに海側が津波にのまれていく映像が写りました。
名取川をすごい水の量が溯上していく映像。
ゆり上が壊滅。
荒浜が壊滅。
仙台空港に津波。
弟と、
『実家・・・。やばいね・・・。のまれたよね・・・。』
と。TVをみながら会話の途中、弟がふと、
『オヤジ・・・倉庫にいなきゃいいけどな・・・。』
(えっ・・・そんな事考えもしなかった・・・)
父の仕事で使う倉庫が仙台空港すぐ近くにあり、
倉庫目の前には『貞山掘り』という運河があります。
映像から、もし父が倉庫にいたのならアウトです。
ものすごく不安になり、
携帯にかけまくました。
一瞬、父の携帯につながったけど、父はでませんでした。
その晩、
旦那様は仕事の最終確認をしてからの帰宅だったため、
帰宅が23時。
顔を見たときは、ないてしまいました![]()
余震もすごかったため、
服を着たまま、TVをつけたまま布団に入り、
一睡もできずに朝になりました。
旦那様は、
『俺、仙台に行ってお義父さんとお義母さんを連れて帰ってくるから』
と帰宅直後から言っていて、被災地に行く気マンマン。
私と弟は被災地に行くのは無理だからやめてと必死でお願いしましたが、
『この地震がもし関東で起こったのなら、お義父さんのことだからどんな手段でも助けにくるはず。
だから自分も行く。今行かないと後悔するから一人でも行ってくる。』
と旦那様の言葉に弟もおれて、
仙台の実家に向かうことになりました。
物資を積んで行くのに、
ホームセンターやスーパーではもう品薄。
あんな光景見たことがなかった。
車を保有していない我が家。
常連であるORIXレンタカーの
スタッフさんに事情を話したら、すぐお車の手配をしてくれました。
見送りの時は、
万が一の事を考えていたので、なんとも言えない見送りでした。
私は心配して駆けつけてくれた、
地元が一緒の友人SSがついててくれました。
(友人のご両親は無事でした)
母からはメールがきていたので無事だと言う事はわかっていましたが、
問題は父です。
連絡がとれず、
叔母(父の妹)や叔父にも報告し、
いとこなどにも協力してもらいました。
『すごい惨状だよ。』
『地獄絵図をみてるみたいだ。』
と弟と旦那様。
毎日毎日家族で父を探し、4月7日。
弟から泣きながら電話が・・・。
『姉ちゃん・・・車みつけたよ・・・。』
号泣してうまく話すことのできない弟。
お願いし、写メを送ってもらい私も号泣。
この日、鍵がささったままの父の車だけがみつかったのです。
帰宅した旦那様の腕の中で、
現実を突きつけられた事に大号泣してしまいました。
この日が一番つらかったです。
あちこちに流された車がある中、
弟はよくやりました。
よく見つけたね。
お父さんが呼んだんだよね。きっと。
車があった場所から、やはり倉庫にいた事は間違いない。
早く見つけてあげなきゃ父がかわいそう。
早く自宅につれて帰らなきゃ。
どこにいるの?どこにいったの?
そればかりでした。
4月10日午後。
母と弟は連日の遺体安置所巡り。
この日は名取の空港ボールの安置所へ。
父はいませんでした。
4月11日。
この日は震災から一ヶ月。
坊の幼稚園入園式でした。
この日も心配して付き添ってくれた地元がいっしょのSS。
私は妊娠8ヵ月。
はっきり言って心ここにあらずでした。
4月12日13時過ぎ。
連日、宮城県警HPに載ってる死亡者リストを、前日に確認してなかったので確認。
あった!
父の名前があった!
震災翌日からずっと仙台の実家で暮らしていた弟。
いったんこっちに戻ってくるこの日。
私はすぐに弟に電話しました。
『おぉ。姉ちゃんどした?あと2、3分で出発するところだったよ。今、靴はいてるとこー。何??』
『お父さんみつかったよ
いたんだよ。空港ボールに確認しに行って
』
『マジで??わかった!すぐオカンといってくるわ!』
嬉しくて涙もでません。
ただただ嬉しくて。
変ですよね。人が亡くなったのに嬉しいだなんて。
でも、あの時の気持ちは『嬉しい』だったんです。
叔母にもすぐ連絡。
姉御にも連絡。
姉御の声聞いたときは、泣けてきちゃったな。
『嬉しいよー。嬉しいよー。』
ってオイオイ泣いたっけ(笑)
義母にも連絡。
義母もないてました。
地元一緒のSSも、ないたとこなんか見たことないのに号泣してました。
KWにも連絡。
近い人には連絡し。
父は貴重品を所持していたため、
すぐに身元がわかりました。
4月10日。午前九時すぎ、
自衛隊の方々により、倉庫より内陸に100メートルほど入った水田で発見され、空港ボールの安置所へ運ばれたそうです。
その日午後には母と弟が空港ボールに行っていたのに、
父には逢えませんでした。(おそらく検視中だったとか)
顔には傷が少しある程度で、
着衣の乱れもなく、警官の方々も『キレイにみつかってよかったですね』と
おっしゃっていたほどでした。
着衣からやはり倉庫内で作業していたんだと思われます。
腕には、母がクリスマスにプレゼントした腕時計をしていたそうです。
最後に父が連絡をしたのも母にでした。
津波がくる2分前。
『自分は大丈夫。家は大丈夫?』
と。
父はラジオが好きで常にかけてます。
おそらく津波が来ることはわかっていたはずです。
ですが、想定外の高さだった・・・。
倉庫周辺の住民は、
地震発生時、津波の警報サイレンはなっていなかったそう。
津波は電柱の高さほどあったと。
父の損傷が軽かったのは、
周りが水田で流されたものが草木など、
ぶつかるものがなく、ながれもサラーッときて、
ザブンザブンではなかったようです。
地獄のような一ヶ月が過ぎ、
父が発見された日の晩は、私は大いびきで眠っていたそうです(笑)
眠れるようになったのはこの日からでした。
震災でたくさんの方々にご心配ご迷惑をおかけしました。
一ヶ月がんばった家族をはじめ、
姉御。義両親。
心友たち、SS夫妻、友人たち、
旦那様の仕事先の方々、
ルアママ、なっちゃん、
産婦人科の先生。ORIXレンタカーのスタッフさん。
A家。コイちゃん。
幼稚園の先生達。実家のご近所さん。
自衛隊の方々。
みんなみんな本当に感謝です。
ありがとう。ありがとう。
ありがとうございます。
まだまだご家族、ご親族、ご友人の方々が行方不明の皆様。
そのご心中を考えると涙がでてきます。
どうかどうかお一人でも多く皆様のもとに帰ってこられますことをお祈りいたします。
父を見つけ出した事は、
私たち姉弟の『絶対みつけだす』という執念からでした。
あきらめないでください。
長文すぎましたが、
忘れちゃならない事なので書きました。
読んでくれて感謝いたします![]()