その4:保土ヶ谷高校シックスクール事故の顛末記 Ⅶ(最終回) | 化学物質過敏症 runのブログ

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●2003年4月1日開学した県立保健福祉大学で、5ヵ所でトルエンが基準値をオーバーした件に関して、情報公開を請求し入手した資料に重大な資料があった。

有機溶媒の危険性を示す資料・文科省「室内空気化学物質についての相談マニュアル作成の手引き(27頁)」を、県民部長が所持していた。

マニュアルの内容=発生源を推定する。

特徴的な臭いの解説。

汚染物質を特定したい時は化学製品に対する情報の提供、汚染物質の低減のために、「工事のやり直し」を示唆。

具体的な補償に対して、治療費、通院交通費、見舞金等の請求を明記。

具体的な揮発性有機溶剤の健康への影響が詳細に記述されている本資料は、県対策委員会には提出されず、保土ヶ谷高校にも示されていない。


■国会で議論された
   2005年5月18日参議院行政監視委員会で、公明党古屋範子議員が保土ヶ谷高校の事故に関して質問し、中山文部科学大臣が「学校でそういうふうなことが報道された、ショックだったわけです。

(略)今後とも、神奈川県の教育委員会とも十分な連携をとりながら、情報提供あるいは技術指導などの適切な対応を行ってまいりたい」と答弁した。文部科学省に神奈川県に対する具体的な指導内容の情報公開を求めたが、「不開示決定通知書=請求文書を保有していないため」との回答があった。

神奈川県に対して文部科学省からの具体的な指導内容に関して情報開示請求をおこなった。

「当該文書作成又は取得の自体確認できなかったため」と回答があった。文部科学省も県教育委員会も連携した対策をしていなかった。


■保土ヶ谷高校シックスクール裁判
 2010年3月30日、横浜地方裁判所民事部に損害賠償請求を提出した。「事故当初から、現在に至るまで、被告の対応は、生徒や教職員の健康を無視し、事故を隠蔽して責任を曖昧化してきたと言わざるを得ず、現在に至るまで、何ら反省が見られない。被害者である教職員や生徒は、被告から謝罪のことばも受けることなく、未だに苦しめ続けられている。(略)被告の責任を明確にするとともにその被害の救済を求めるものである」


 第1回2010年7月8日~第20回2013年10月31日。
 第21回は2014年2月18日で、証人尋問(原告及び元校長)を13時30分~17時の予定です。

傍聴をお願い申し上げます。

 提訴から尋問まで約4年が経過した。

裁判の中で被告は、原告の人権を無視した主張を何度も提出した。

心療内科のカルテ全面開示、原告の実家の写真を住民に無断で撮影し証拠提出した。

保土ヶ谷高校での清掃当番・鍵当番の実態に対し、虚偽の主張をした。原告は1年10カ月、会議室で美術の授業を行った。

流しがなく、バケツに水を汲み手を洗ってもらった。

不便を我慢して学習した生徒には心からお礼申し上げます。

 思いやりと豊かな心の生徒たち。

教育現場で起きた有機溶剤汚染事故を通して、シックスクール事故の重さを多くの方々にご理解いただき、心からの応援をいただきました。

4年間は、調査に費やし、想像を超えた事実を見据えなければならない貴重な時間でした。

私の心身を支えてくださいました皆様に心よりお礼申し上げます。