その2:第9部:化学物質過敏症に関する情報収集、解析調査報告書 | 化学物質過敏症 runのブログ

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2 「化学物質過敏症」・「シックハウス症候群」と因果関係の法理
もっとも、このうち、因果関係判断については、実は、「化学物質過敏症」をめぐる事例で法的に問題となりうる点は、既に、他の不法行為責任事例、とりわけ、公害・薬害事例や医療過誤事例での経験が蓄積される中で、一定の方向性が見出されている。

というのは、これらの事件類型では、個々の事件において、自然科学的な原因・結果の関係がどこまで精緻に証明されなければならないのかが古典的な論点となっており、とりわけ、Yとされこのように、「化学物質過敏症」として発現する症状には、症状自体は(程度の軽重・発現の範囲の広狭こそあれ)一般的にみられる非特異性のものであるが、その発生メカニズムが――いったん罹患した後の病状の亢進のメカニズムも含め――現在の科学・技術による得られる知見からは必ずしも明確に説明できない点があるという点で、「未知の危険」に属する部類のものである7。


*5 この判決に関して言えば、判決文から窺われる限りでは、後述するように被害者側の因果関係の立証負担が緩和されるべきであるとはいえ、それには限度があるのであって、本件では、X側の証明活動において、具体的証拠の提示をあまりにも軽視したという面が否めない。

また、Xの健康被害についても、Xが合理的にみて生命・健康等に重大な侵襲となるものでもない検査を受けていないなど、裁判官の眼でみたときに、Xの主張する健康不調の存在に対して懐疑的心証を抱かせることとなる要因があった。

このようななかで、本判決は、自覚症状をいかに主張してところで、客観的なデータに乏しければ裁判所として健康被害の認定がされないということを端的に示している。
6 日弁連・前掲書48 頁以下は、①幅広い症状、大きい個人差、②発症原因となる物質の多様性、③反応する物質の多様性、④微量の化学物質による症状誘発、⑤大脳辺縁系に与える影響を挙げる。:

:7 次の2 に掲げた杉並区不燃ゴミ中継施設健康被害原因裁定申請事件裁定(公調委平成14年6 月26 日裁定)判時1789 号42 頁も参照。:


以上のようなことから、ある特定の化学物質への接触と障害との間の因果関係をまさに「一点の疑義もなく」自然科学的に証明することは、現時点での科学・技術の水準を用いても困難である。因果関係判断における疫学的分析・評価も、上記の事情に照らせば、困難を極める。
しかしながら、他方で、なんらかの化学物質が人体に有害に作用し、自律神経系・内分泌系等に障害をもたらす事態が生じていることについての認識は、今日では、専門家集団を超え、ひろく一般に形成されている。

病名・発生メカニズムはともかく、化学物質に接触したことにより健康被害が生じたことが明らかな事件は、客観的に存在しているし、一般に認知されているところである。

化学物質への接触による健康被害を検知し、防止するための一定の取組みも、すべての化学物質に対応した包括的な取組みではないものの、基準策定・啓発活動など、政府および民間ベースでおこなわれている。

専門的な知見レベルでも、「化学物質過敏症」に関する専門的研究が着々と進展しており、1996 年度厚生省長期慢性疾患研究事業アレルギー研究班における「化学物質過敏症の診断基準」の作成は、通過点ではあるにせよ、この病態に関するわが国の研究の1 つの到達点を形成しているものと目される。

また、クロルビリホス(有機リン系防蟻剤)とホルムアルデヒドに限定されたものではあるが、室内空気に関する2002 年の建築基準法改正は、「過去に大量の化学物質の暴露をうけたあと、または長期間にわたって慢性的に化学物質の暴露を受けたあと、ふたたび同種または同系統の化学物質に再暴露された際にみられる不快な臨床症状」の存在がもはや否定できない事実であり、これを想定した行動準則を共同体構成員に課す方向を推進したものと評価することができる。

このような状況が、「化学物質過敏症」事例に向かうわが国の因果関係論と民事過失論にとって、どのような意味をもつか、理論的に検討をする時期が既に到来しているものと言うことができる。

この種の問題が登場してきた初期と比べ、研究の水準も、一般の理解も、規制の方向性の点でも質的な転換を経た今日、民事責任論のみが、この問題に無関心でいることは許されない状況にある。

上に見た「化学物質過敏症」の特徴が、これまでの典型的な過失事例とは異なったものであるだけに、この種の事例を対象とした責任理論の開拓と検証を怠ると、この種の事例を想定して立てられていなかった法理を適用した責任の否定という奇妙な帰結がストレートに導かれることになる。

民事責任を肯定するにせよ、否定するにせよ、対象事例を見据えた法理の構築が求められるところである。