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ぶきっちょブロガー

エンタメやニュースを中心につれつれと。

前回に引き続き、勉強が出来ると偉いのかについて考えていく。

勉学で成績が良いということは、課題を与えればきちんとこなすことを示すため、雇う側からすれば「優秀な人材」である。
では、起業したりリーダーになったりするうえではどうだろうか。

結論から言えば、必ずしも重要ではない。

成績優良者などといったものは学校の側が評価ルールを決めている。
しかし、自分で何かを立ち上げてやっていくうえでは、ルールを自分で作らなければならない。
何を以って良しとするか、何を目標にするかは自分で決めなければならないし、どのような道筋で目標を達成するかも自分で考えなければならない。
このため、ただ単に勉強が出来るというのではダメなのである。

自分がリーダーとしてやっていくうえで何が大切かについて教えてくれる学校はほとんどない。
総合的な活動な時間は設けられているものの、それが評価において占める割合は小さい。
そのため、リーダーとしてやっていくには自分で色々考えたり調べたりしなければならないが、成績に反映されにくいためにやる人は少ない。


結局のところ、勉強の成績が良いから偉いというのは、将来役に立ってくれるだろうという考え方や、学校の作り出したルールの下では成り立つ。
だがリーダーとして良いかどうかは、結果や数字、満足度をもってでしか評価できない。
勉強出来る人が偉いというのは、それを評価する人あってのものである。
権力のある人がそう言っているに過ぎないのである。

日本では学校の勉強が出来ることが偉いと考えられているが、本当に「エラい」のだろうか?
今回は学校教育の本質に焦点を当ててみたい。

結論から言えば、"条件付きで"エラいというのが答えである。

日本の学校教育では、小さい頃からネガティブ思考や周囲との同調を徹底的に叩き込まれる。
いわゆる個性を潰す教育である。
受験勉強では意味のないものに延々と取り組まされ、いい高校やいい大学に行けば持て囃される。
大学で成績がよければ企業に就職しやすくなったり、学校推薦をもらえるかどうかはほぼ成績で決まる。

企業に就職しやすくなるというところに目を付けると、学校教育の本質がわかりやすい。
これら一連の教育に共通して言えるのは、従業員を育てるための教育であるという点である。
雇う側としては、クセのある人よりはマイナスのない人の方が扱いやすく、言われた通りに動いてくれる人の方がやりやすい。
下手にリーダーシップや主体性があると面倒なのである。
雇う側は、会社という組織がうまく回ってほしいので、優秀な人材を求める。
もっと言えば、従順な奴隷を欲しがっているのである。

このように考えれば、日本の学校教育は雇われる側の人間を育てるためのものという意味が強いのがわかる。
自分の専門分野、やりたい分野の勉強以外にもたくさんの教科をやらされ、総合的な成績で判断される。
これはいかに使いやすい人材かを見分ける方法としては非常に合理的である。
このような評価方法の下では、総合的な成績が良い人が優秀ということができる。
だが、これは評価のルール、評価する人間が存在する状況下でしか言えないのである。
つまり、誰かに評価されることを前提に考えているのである。

次回に続く

過程と結果、どっちが大事かという問いについて、誰もが一度は考えたことがあるでしょう。
この問い自体ナンセンスで、過程と結果が独立したものではない以上、優劣をつけることはできません。

結果はプロセスの産物です。
そのため、いい結果を出すためには必然的にいい過程が求められ、過程がいいものであったかは結果からしか判断できません。
つまり、結果というものがあってはじめて過程を議論することができるのです。

過程そのものが目的化してしまうというのは意味がありません。
何らかの利益や結果を得るためにプロセスを踏むのであって、過程は手段なのです。
そのため、過程をより良いものにしようと血道をあげ、肝心の結果がおろそかになるというのは本末転倒です。

サッカーなどのスポーツを例に考えます。
練習は大会で優勝するためにやるものです。
練習は大会優勝のための「手段」であって目的ではありません。
また練習が良いものであったかは、優勝したかどうかという結果によって判断されます。
言い換えれば、練習の段階で結果は決まっているのです。


世の中では「過程こそ大事」「やることが重要」と言われることがあります。
しかし結果を以ってでしか過程を見れない以上、そのような考え方は甘えと言わざるを得ません。
スポーツにしろ勉学にしろ事の本質は変わらず、目的もなくやるというのはお金と時間の無駄です。
結果から考えていき、どのような過程を経るかを考えるべきなのです。

高校の現代文でマスコミ関係の話についてならった人は多いでしょう。
そこではマスコミが悪者扱いされていて、テレビなどの情報はあたかも完全に利用価値が無いかのように語られています。
果たして、マスメディアの発する情報は全く利用価値がないと言えるのでしょうか。

結論から言うと、答えはノーです。
確かに、マスメディアの情報は鵜呑みにしてはいけません。
しかし、大衆向けに発信される情報である以上、その情報は世間一般の考え方を反映されたものとなるため、ある程度の利用価値を含んでいます。

例えば、テレビドラマ。
月9では恋仲が放送されましたね。
内容としては幼馴染との恋愛や結婚を描いたもので、これは一般的な日本人のニーズに非常にマッチします。
日本では幼馴染との結婚が最高の形と考える人が多いので、マスメディア側としては幼馴染との恋愛に関するコンテンツを作れば良いのです。
逆に言えば、このような番組が作られるのは、幼馴染との結婚を望む人が多いからです。

もう一つの例としては、お金に関する番組が挙げられます。
番組の中には一獲千金のような話のものがあります。
このような番組からは、日本には苦労せずにお金持ちになりたい人が多いということがわかります。
このことから、FXの人気の理由などについて考えることができるでしょう。


情報というものは発信者がいる以上、鵜呑みにすることは危険です。
たとえ相手が権威ある人であるとしても、話の内容が正しいという補償はありません。
大事なのは背景に何があるか、発信者は誰かを理解することです。
ネットが普及した現代において、メディアリテラシーがあるかないかの違いは非常に大きいです。

モノづくりと聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
ハンダ付けをしたり溶接したりといったことを思い浮かべる方は多いと思います。
しかし私からすれば、新たなモノづくりの形態が現れつつあるようにも感じます。

モノづくりは、材料を加工して新たなものを作り出すというものです。
これは、「持っている材料を組み合わせて物を作る」と言い換えることが出来ます。
つまり、モノづくりの本質は

持っている物から新しい何かを生み出す

ところにあります。

この考え方はネットが発達した現代社会において非常に重要です。
インターネットの普及により、わからないことでもネットで調べれば簡単に出てくる時代になりました。
そのため、今の時代は複数の知識を組み合わせて価値を生み出すことが重要になってきています。

例えば、医療工学。
これは生物学的な知識と工学的な知識を合わせて使う分野で、内容としては医療機器、治療方法といったものが主です。

わかりやすいものとしては東北大。
東北大では医工学研究科が2008年に設置されました。
研究分野の中にはそれらしきものは前からあったのですが、学科を設置することで重きを置くことを宣言したものと捉えることができます。

工学というものは実用性方面の学問であり、世の中の需要や解決が急がれる問題があって成り立ちます。数学だけ、物理だけでは成り立ちません。
他の分野と合わさることでようやく成り立ちます。
それを考えると、医工学研究科の設置は起こるべくして起きたものでしょう。

医工学の例では、医学と工学を「材料」とし、医工学という「新たな物」が出来ました。
生体の構造と圧電技術から超音波機器が、消化器の構造と光通信技術から胃カメラができています。
これらの技術は現代社会では必要不可欠で、今でも研究によって進歩し続けています。
医学と工学によって新たな価値が生み出されたのです。


ひと昔前まではある物事を「知っている」ことが重要とされていましたが、今の時代はそうではありません。
既存の物から何かを作り出すことが求められています。
物を組み合わせて何かを作る以上、材料となるもののことは知っておく必要はありますが、必要な知識はネットでググれば大抵出てきます。
その状況下で価値を生み出すには組み合わせや手法によって他と差別化することが必要です。
そこにはモノづくりというものが、形を変えて存在しているように思えます。