ここ数年パワースポットという言葉が普及し
書店でもパワースポットガイドといったような本を
たくさん見かけるようになりました。

それにともなって、今まではそれほど人が多く訪れる
ことのなかったような、場所にもたくさんの人が
訪れるようになりました。

パワースポットと言われる場所の多くは、
神社や寺院などの神聖な場所や、豊かな自然の中
にあります。

神社や寺院が建てられている場所は
何らかの理由で場のエネルギーが強いことが多いし、
豊かな自然がある場所は、清らかで力強い
エネルギーに満ちていて、様々な形で
そのエネルギーを感じ、チャージすることができます。

パワースポットを訪れる時、
このパワースポットではこんな力がもらえるらしい
とか、こういう願いごとが叶うらしいとか
そういったことを期待している方も多いと思います。

また、人によっては写真に光が写っているのを見て、
神さまが写ったと喜んだり、チャネリングにより
神さまからメッセージをもらったと喜んでいたりと
現象面の方に意識が向いてしまう人がいます。


そういったことを否定する訳ではありませんが、
それではまるで、神社の入口にある鳥居だけを
見て帰ってきてしまうようなもので、
その奥にある本当の聖域には気づかないままに
なってしまいます。

よりよい自分になりたい、もっと幸せになりたい
神聖な存在からメッセージをもらいたいといったこと
を考えることは自然で、そういった気持ちを持って
パワースポットを訪れることもいいと思いますが、
パワースポットと言われる場所では、もっともっと
素晴らしいものに出会うことができます。

パワースポットにあふれるエネルギーは
私たちの存在を深いレベルで癒し、満たしてくれる
偉大なエネルギーです。

そのエネルギーは愛そのものです。

私たちがハートを開いて、期待や考えを手放し、
その偉大な愛のエネルギーに感謝し、
そのエネルギーを感じようとすれば、
さらに深いレベルで、より多くのエネルギーが
私たちに流れ込んできます。

そしてそういった場所には、神さまだけではなく、
姿が見えないながらも私たちや、自然や動物など、
生きとし生けるものを守り、育み、成長させ、
この地球の秩序と健康と安全を守って
下さっている様々な存在が沢山いらっしゃいます。

そしてやはり私たちがハートを開いて
期待や考えを手放し、そういった方々の
愛を感じ、働きに感謝することができれば、
そういった方々からも多大なサポートを得て
その方々に関わるエネルギーを分けて頂くことが
できます。

そんなパワフルで素晴らしい場所を訪れながら、
今の自分の欲求や願望で頭をいっぱいにしていたり
感じられるエネルギーや、写真に写る光、
メッセージなどに意識を向けているだけでは
とてももったいないと思います。

よく、私は鈍感だから何も感じないという
ことをおっしゃる方がいますが、神聖で
愛に満ちた高い周波数のエネルギーというのは
霊感やサイキックな能力で感じ取るものでは
ありません。ハートが開いていて純粋ならば
誰にでも感じることができるものです。

むしろ霊感やサイキックな能力によって
感じることができるエネルギーというのは
それよりも低い周波数のものだと言えます。

パワースポットと言われる場所を
訪れる機会を得たなら、ハートを開き、
その場所にご縁を頂けたことやその場所で
ご縁を頂ける多くの存在に謙虚に感謝し、
自分自身の内側の深い部分で、その場所に
満ちる神聖さや、あふれ出す偉大なエネルギーを
感じてみて下さい。

きっと自分自身の持っている概念や言葉では
表現しきれない、素晴らしいエネルギーや
神聖さを感じ、自分自身が認識できる以上に
深いレベルで癒され、満たされることと思います。

そして、どこにいてもそういう姿勢でいられる
なら、どんな場所にいても、自分自身を
この宇宙にあふれる神聖な無限のエネルギーで
満たすことができるようになります。

どこにいてもどんな時も、
この宇宙にあふれる神聖な無限のエネルギーを
感じ、感謝することができますように☆
スピリチュアルな概念についての議論を見ていると、
しばしば特定の同じ対象について議論しているようでいて、
その概念について論じるときに使っている言葉の定義や、
その対象についての定義自体が全く食い違っていることがあります。

言葉の定義やその対象についての定義が違っているということは、
実際は違う対象について、相手がどういう意味で
話しているのかを全く分からないまま
あれこれ意見を述べ合っているということになります。
要するに議論になっていないということです。

もちろんこういった傾向は、スピリチュアルな概念に関する議論に
限ってのことではありませんが、人と何かについて話をする際には、
前提となる使用する言語についての概念を、お互いにきちんと
確かめ、理解しあう必要があります。

…が、ほとんどの人がこれをしていないのではないでしょうか?

たとえば「フルーツ」についての議論。

ある人は「もも」のことをフルーツだと思い、
ある人は「バナナ」のことをフルーツだと思う。
ある人は木にくっついているものをフルーツだと思い、
ある人は甘い香りのするものはみなフルーツだと思う。
ある人は山にあるものがフルーツだと思い、
ある人は病気を治すものがフルーツだと思う。

そして議論が始まります。

ある人はフルーツというのはピンクで丸いのだという。
ある人はフルーツというのは黄色くて細長いものだという。
ある人はフルーツというのは柔らかいという。
ある人はフルーツというのはかたいのだという。
ある人はフルーツなんてものはない。それはただの植物にすぎないという。
ある人はそれはフルーツに見えるけど、本当は分子の集まりだという。
ある人はフルーツは病気に効く薬なのだという。
ある人はフルーツどころか、そもそもこの世に存在するものには実体がない
というなどなど…

このような感じで議論は永遠に続きます。

そう、こういったことはどれも真実。
でも、その人の経験の範囲内、学習した範囲内、
すでにもっている概念の範囲内、ある次元から見た範囲内、
自分の意識の範囲内でフルーツというものを捉えた結果です。

自分が触れたもの、経験したこと、学習したことなどから
概念が形成され、その概念を通して様々なものを知覚し、
意識が拡がっていくという点からいえば、
けっしてこれが間違いだというわけではありませんが、
これでは自分自身の「フルーツ観」を表明しているだけで、
議論している意味がありません。

中にはまだましな人もいて、様々な人の発言のデータを集め、
そこに共通するものを抽出したり、それを組み合わせたものから
さらなる概念を形作る人もいます。

けれども、限られた意識を通して物事を理解し、議論をしている人
たちが語る情報を集めたデータというのは、そのデータ自体が
かたよっていることも多く、無駄とは言えないけれども、
かえって真実から遠ざかってしまう場合も多いでしょう。

そういう不確実なデータであっても、そういったデータに
依存してしまう人、自分自身の意識を拡大させることで
真実を知ろうとする努力をしない人、そんな人達の性質を
助長してしまうこともあります。

また、自分こそが、自分だけが真実を知っている、
真理を知っていると思いこみ、独自の概念や理論で構築された
世界に閉じこもり、成長を拒んでいる人もいます。

そういった態度は顕微鏡で宇宙を知ろうとするようなものです。
確かにレンズの先にあるウィルスやチリは見えるかもしれないし、
それはそれですごいことですが、そういった見方では
宇宙の本当の姿を知ることはできません。
(ここでは本当の意味で最小単位のものを知ることにより、そこに
現れる宇宙そのものを見るといった意味合いは含まれていません)

時にはそういった人たちは他の人にも顕微鏡をのぞくことをすすめ、
顕微鏡の中にしか真実はない。つまり、自分の世界観だけが正しいとか
自分の世界観が一番すぐれているということを他の人にも認めさせよう
としたり、その世界観でものを見ないと幸せになれないなどと
他の人に信じさせようとしたりすることもあります。

もちろん、この広大すぎる宇宙を理解するために、ある概念を通して
物事を見たり、自分の立ち位置を決めることで、ある地点からの
安定した視線ができ宇宙を理解するとっかかりになったり、
宇宙を理解するためのパズルのピースを順番に手に入れることができる
といった側面もあります。

けれども人間の意識の中に、二元的意識や、優劣の観念、
善悪などのジャッジ、自分を愛せないなどの心理的問題、
豊かさは限られているという不安などがあれば、差別や分裂、
競争や争い、誤解や被害妄想などが生まれ、
それが手に負えにほど大きくなれば、うつや落ち込みや自殺、
虐待や犯罪、いじめやバッシングや戦争などに
発展していくこともあります。

議論をするにあたっては、

議論の際に使用している言葉のが概念自体が違う場合があるから
議論できるレベルになるまできちんと確認しようと考える思慮深さ

自分自身の意識が小さければ、より大きな意識のレベルから見た
解釈や知覚については理解できないから、『ある人の持つ概念や説明』が
間違っているのではなく、自分の意識が小さいからかもしれないと考えたり、
今の自分自身に宇宙が明らかにしてくれるものだけを
自分自身は理解できているのだと思える謙虚さ

もし相手の人の持つ『概念や説明が』小さなものだと思えても、
その人が現在の意識の大きさまで至ったことの尊さと神聖さを尊敬し
その人の意識がさらに拡大できるよう自分にできることをさせてもらおうと
考える思いやりと奉仕の気持ち

「全ての存在の内には真理を知るために必要な智慧がある」と
全ての存在に内在する神聖なる智慧を信頼する姿勢。

自分と違った概念や表現を持つ人を簡単に理解したつもりにならず、
本当の意味で理解する忍耐強さと愛。

自分の知識や概念や意識の大きさの中に宇宙を閉じ込めず、
宇宙の大きさまで意識が拡がっていくような
思慮深く、謙虚に、思いやりと奉仕の気持ち

自分と違った概念や表現を持つ人を簡単に理解したつもりにならず、
本当の意味で理解するための共感と忍耐強さと愛。

こういったものがなければ、議論が自分自身の自我を満足させるための
ただのむなしいパワーゲームになってしまいます。

自分自身の意識の大きさや持っている概念のサイズに宇宙を縮めて、
小さな意識のまま、宇宙を理解した気になったりせず、人や宇宙を
本当に理解できるよう、自分自身の意識を拡大していけるような
議論ができますように。

そして、全ての存在が全ての存在を理解し、
全ての存在が全ての存在そのものになる日がきますように。

そんな願いがかなうように、思慮深さと謙虚さと、
思いやりと奉仕の気持ち、神聖なる智慧を信頼する姿勢、
忍耐強さと愛を育んでいきたいものです。
きらめく多様性の背後にある永遠で無限の光キラキラ

一瞬でも長く、その光を見つめていられますように。

どんな時もその光を見つめていられますように。

自分の内にあるその光に気づけますように。

自分や世界が、その光そのものであると気づけますように。

そして、光そのものとして輝けますように宝石紫