この “ありのまま” とは、
何かを介する余地のないほどに、
一瞬一瞬の “今” であり、
神聖さそのものである。
それは
全てにおいて完璧であり、
全てに対して開かれている。
まさに愛である。
全てが “ありのまま” であり、
愛そのものである。
この “ありのまま” とは、
何かを介する余地のないほどに、
一瞬一瞬の “今” であり、
神聖さそのものである。
それは
全てにおいて完璧であり、
全てに対して開かれている。
まさに愛である。
全てが “ありのまま” であり、
愛そのものである。
あなたは今、とても辛く大変な状態かも知れない。
しかし、それは現れにおいて、マインドの視点から見た場合である。
あなたは気づいている。
あなたは認識している。
もちろん、生活するにあたり、
今の状態では、支障を来すかも知れない。
しかし、全ては過ぎ去る。
あなたは、 “ それ ” だと確信する。
あなたは “ それそのもの ” として、
個のまま、そして個も超えて、全てを受け容れる時、
全ては消え去る。
感情にも、思考にも、肉体にも、
ただ気づき、
ただ在りましょう。
全てに、
ただ気づき、
ただ在りましょう。
あなたの存在が、
真我から祝福される。
ただただ静かで、
生まれる以前の、
何でもない全て。
自我を知って、真我を知る。
自我を知っているかどうかは、
赤ちゃんと覚者の違い。
だからと言って、
相対的な体験をしても、
真我を知るかどうかは、
誰にも分からない。
個人が分かるような域ではない。
個人が知ろうが知らまいが、
全ては真我である。
唯一、今のあなたに言える事は、
調和 = 愛
である。
分け隔てるものは何もない。
マインドやエゴを排除するのではなく、
全てにおいて
“ ただそうである ”
という気づき。
対極な何かを統合させたりするのではなく、
(対極なものなど始めから存在しない)
その気づきこそが、調和であり、愛である。
マインドを成熟させるのではなく、
気づきが自ずと成熟させる
いつの間にか、
成熟しているものであり、
成熟しているという自覚はない
覚者が「私は覚者だ!」と言わないように。
全てがただ起こるままに。
全てがただ在るがままに。
風に吹かれる野の花のように。
川面に浮かぶ木の葉のように。
ただただその身を全てに委ね、
起こる事にただ気づく