皆さんは、「生きている!」って実感すること、ありますか?

今回は生を実感する瞬間を、キックボクサー、ヴァイオリニスト、サッカー審判、3者の場合で

見てみましょう。

 

 

①     キックボクサー

魔裟斗 著「青春」 より

 

解説

全日本キックボクシング連盟を脱退したのち、連盟からの圧力もあり、練習場所もなく彷徨っていた魔裟斗。

練習場所を求めて彼は国外のタイにまで渡り、数か月ぶりにキックができる環境を得た。

 

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サンドバックの前に立つ。そして思いっきり蹴り上げるー。

その刹那、僕の心を覆いつくしていた暗闇がいっぺんに吹き飛んでしまった。

超ネガティブだった気持ちがドバっと一気に弾け散り、身体の奥底から熱い感情が

湧き出してきた。

俺、今、超生きている! 生きているぞ! 生きているんだ!

これだ! これだ! これだ! 俺はキックボクシングがやりたかったんだ!

 

 

 

②     ヴァイオリニスト

千住真理子 著「ヴァイオリニストは音になる」より

 

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愛機はストラディヴァリウスの1つで、名前は「ディランティ」と言う。

2002年の夏にスイスの富豪が亡くなった際、運良く手に入れることができた。

少し弾いただけで、その音色のとりことなり、腹をくくって借金をした。

「ディランティ」は人生をかけるに値する楽器だし、そうするのが当然のことだと思う。

「ディランティ」とステージに立つと、ものすごく幸せになる。

ああ、生きているんだ、生まれてきてよかった、と思う。

 

 

 

③     サッカー審判

まえたくの場合

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審判は判定に対して誰からも非難される存在だ。

決して褒められることもない、日陰の存在である。

「あの審判の判定のせいで負けた」とは言われるが、「あの判定のおかげで勝った」と言われることは無い。

 

だがしかし、選手は1人欠けても試合は成立するが、審判が1人欠けたら、試合は成立しない。

僕らはプライドを持って、ジャッジを行っている。

 

普段から中、高、大学生や社会人、シニア、女子の試合に至るまで多様な試合に出向く。

 

裁く試合がある程度のレベルの高い試合であり、

また自身が主審で、思うように試合をコントロールできているとき。

そんな中起こったファウル。

的確に事象を見極めて、警告のカードを切る。

その瞬間、「ああ、俺生きているな。」

生を実感する。

フィールドを駆け回って汗をかいた爽快感や、

審判の職責を果たした安堵感が、そう思わせるのだろうか。