めっちゃ今回は、社会的なタイトル(^^;)
でもね、ちょっと私の視点から
書いてみたいと思いました。
もう7年は経ったかな
30年ほど真面目に続けていた信仰を
ふと、
「あ、やめよう!」
と思うきっかけがあって
当時それは自分にとって辛いことだったけど
かえって自分の曖昧な気持ちが
ハッキリと方向が定まって
信仰するのを終わろう
と決断して、
自分を導いてくれた人に伝えて
あまり引き止めもされず
そっと脱会しました。
法具(本や数珠など)も粗末にならないように、お返しして
書籍などは信仰の収集センターに送り届けて
必要な方に再利用してもらうようにした。
一応、立つ鳥後を濁さず・・・が大事かなと思って。
信仰が間違っているとか
不満があるとか
そういうことではなくて
辞める時だ
と思ったので辞めた
そんな感じ。
とまあ、これで私の信仰経験の説明を
簡単に
で、現在、とある宗教団体と政治家との
癒着の疑惑とか
信者の家族の犯罪によって明るみになった
度を超えると思われる献金が
ニュースの話題になっていたりする。
コメンテーターが、
「なんでそんなに多額の金額を献金する必要があるんですか」
「団体でチェックして、規制しないんですか」
と、信仰関係者に詰め寄っている
画面を見て、
それはそれでげんなりした。
いまさら・・・・
犯罪がらみのニュースなので
原因究明という目的で、
信仰への妥当な寄付、という
一般的に共通理解のない信者側の行為を
教団側にインタビューする時間
なかなかに違和感があった。
個人の信仰のあり方に
信仰の団体の管理不行き届きを問いただしているようで
信仰団体というものが、
管理の行き届いた学校や会社みたいな
世界だと思っているのかしら
私は信仰をやめた口ですが
長年の経験から思うことは
信徒は教義と「教団」に無条件に貢献する
「教団」は教義と場を提供するけれど
信徒の信仰を管理しない
形をとっていると思っている
信者本人としては
精一杯、自分の選んだ教義を、
無条件に信じて行動しないと、
信仰生活はあんまり楽しいものでは無い
そして、信仰の世界は
入って安心、外の世界から心が守られる世界なんだけど
その中で生きていくことはですね
信仰団体の構造というのは
普通の世間と同じく
厳しかったり
順位があったり、何世代も続くグループがあったり
上下関係のピラミッド構造があったりね
世間以上にがっちりしている
汚れた世間にいるよりも
教えをともにする仲間と一緒に
神聖な神について語っているほうが
心が平和になる、魂が向上する
そうやって、信者と教団側の強固な結びつきを
地域を含んだコミュニティの中で継続していくので
ガッツがないと、信仰の中ですら浮いてしまう
なかなかの競争社会だ。
そんなことはない
優しい、穏やかな世界だと、
信仰側に居る人は言うのだろうけど
いや~
ガッツのいる世界です
向上するガッツがあれば、信仰の中では
楽しく生きていける
がっつり、がんばらないと、楽しくないのです。
あれはあれで、なかなか
根性の要る世界なのです。
私のような、
同じ団体の信者と
プライベートでは付き合わない人間とか
たいして献金(お布施)できない人間にとっては
なかなか居場所のない世界です
信仰の中で、たくさんの人の名前を覚えて
会うたびに話し込み
ずっと教団の建物に通って
役職を得て、グループの長になって
たくさん献金している
ガッツのある人たちが
自分の仕事をしながら、会社を回しながら
大きな人脈で他人の面倒を見、
早朝から奉仕に駆けつけるという
なかなかのやり手の人が集う
エリート集団 教団
ある意味、そういう世界。
たくさん献金をしたら
「よく執着を切りましたね!!」
と
褒めてもらえる
本人にとってのメリットがあるからやっている。
それは、大なり小なり
一般の世間と同じことをやっている。
献金で破綻することは
カードを使いまくって破綻したり
経営が予想通りに行かず破綻したりすることと
基本的には同じだと思う。
デジタル社会の発展や、個人の発信が爆発的に増えた現代で
信仰そのものの説得力が薄れてきているように
私は思うのだけれど
そのデジタル技術が、信仰をサポートして
LINEグループで連絡を取り合ったり
信仰の情報や予約を、スマホで出来るようになったり
なかなかたくましい
ものすごい情報量で
日常を埋めつくしていく
私はその団体を退会して7年近くになるけれど
今頃、供養もお護摩も
祈りの修行も
ネット決済で申し込みできるようになっているかもしれない。
私が通っていた最後くらいには、
本部クラスの寺院では、
修行のチケットが自販機で頒布されていた
いやさ、すでに、スマホで法要に参座という
メタバース式典になっているやもしれない
いま、ニュースなどで、宗教も献金も問題提起されているからといって
ここぞとばかりに
信仰していることをネタにして、からかったり
その人を特定できる状態で、他人の宗教的なプライバシーを
明かしたりするのは
お行儀が悪いと思っている。
それは!それぞれの仕事とか
信念とか
それぞれが属している世界への
接し方が現れるから。
好きじゃないかもだけど
信仰そのものを大切にする自由は
尊重し、守らないといけないと思っている私ですが
信仰している人に対して
私がよく言っている悪口がある。
それは
私が目の前にいるのに
神様の話ばっかりしてんな!(笑)
です。
これは、私が信仰しているときから
そう思ってました。
だから、最初から
信仰不適格者だったのかもしれません。