過去記事を編集再投稿しています。

 

 

人間は60年ひとまわりして子どもに返る...と言われますが、

なんだか本当にそうみたい。

2年前還暦を迎えた私。
ほぼ記憶の彼方に追いやっていたことを、
「そういえばそうだった!」と色々思い出して分析しています。

 

今日はそのひとつめ。
幼稚園から小学校一年まで教室で話すことができなかった、
でもある女の子との出会いでそれを変えることができた・・・
そんな私の過去のこと、お話ししたいと思います。


 

■ ある日、突然・・・幼稚園でお話ができなくなった
 

「おとなしい無口な子ども」というジャンルの中にいた私。
でも、今の私があの時の私を見たら、
明らかな場面緘黙児(ばめんかんもくじ)と感じるはずです。


それは入園して数日目のことだったかと。

おやつ初日、先生の合図「いただきます!」の前にコップに手が出る私。

そこをすかさず
「せんせい!もう食べている人がいます!」と、
正面にいた男児くんが手をあげて報告しました。

 

一斉に集まる子どもの視線に凍り付く私。

時が止まりました。
 

先生は私の方をみて、やさしく何か言ってくれていましたが言葉が耳に入りませんでした。喉の筋肉が締められたような、舌のつけねもこわばって、何より胸のあたりには重い蓋をかぶせられた感覚。たとえるならそんな感じで・・・

そのときから、教室で声が出なくなりました。


 

■今の私の分析と、あの時の日常。

今思えばね、こんな風景園は児の日常あるある案件でしょ?
でも当時の私にはキャパオーバーだったんでしょうね。

 

怖かったんです。

 

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ひとりっ子で引っ越してきたばかり、
それまで周囲に同じくらいの子どもとの交流がなかった。

というのも影響していると「今の私」は分析しています。

 

ストレスの指標って、比較するものがないんですよね。

その人が辛いって、その人が苦しいって感じたら、それがストレスなんです。ダメージなんです。物差しは個々人の中にあるから・・・だから、あの時の私は凄い衝撃をきかっけにダメージを受けちゃっていたんだと思うんです。

 

■そんな私の日常は・・・。

話せなかったとはいえ、園での生活にはさほど困ることもなくて。「首」の動きとうすら笑いで乗り切りました。先生的にもただの「恥ずかしがり屋で無口な子」そんな印象だったんじゃないかな。


帰り道が一緒だったあーちゃんとは普通に話したり遊んだりもできていたし、他の園児さんとも園庭で遊ぶだけなら全然大丈夫で。また、近所のお兄さんお姉さんとは普通にお話できたし、たくさん遊んでもらってました。
 

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なので、母はわたしが園で「話すコトができない」ってこと知らなかったと思います。その理由は、彼女からこの件で怒られたことがないから。

 

母は自分の考えに反する言動に対して「手と口」が頻繁に出る人でしたので、本当に知らなかったのだと思います。家の方が恐怖でしたが慣れですかね?家で話すことはできてました。


園での生活や日常生活のストレス、当時はそんな感覚はありませんでしたがカラダにはサインがたくさんでていて、喘息と自家中毒でしょっちゅうお休みしていましたっけ。

 

小学校への進学と、出会い

 

月日は過ぎ、小学校受験を経て幼稚園のみんなとは別の学校へ通うことになりました。(ちなみに入試面接もうなずきだけで通した←もちろん母にはこっぴどく怒られた)

 

小学校に入学。
制服を着てランドセルをしょっての電車通学、教室にはたくさんの生徒!室内の圧迫感は半端なかったけれど...先生やクラスメートのこと、とても好きになれました。


 

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しかし、流石に今の状況で学校生活を送ることは心苦しい。

そう感じていた時、一人の女の子との出会いが私を変えました。


大きな人生の転換期があるとすれば、きっと一番最初はあの時かもしれません。
今の私にも繋がるお話、引き続き書かせていただきますね。

 







 

 

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