「安全」は客観的な基準だが、程度、確率の問題だ。たとえば飛行機が安全かどうかは確率でしか言えない。飛行機に乗って死亡する確率は10万分の1。10万回飛行すれば1回死亡することがある。1生の内で10万回飛行機に乗る人はいないかもしれないが、だからといって自分が乗った飛行機が墜落しないとは断言できない。

 「安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである」(強調は筆者)(文部科学省 安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会 報告書 第2章)という説は誤りである。10万回の飛行に1回死亡する確率のある飛行機が安全であるかどうかを決めるのは人間が勝手に定めた基準であって、「客観的」な判断ではない。

 

「安心」は主観的な心の基準である。「心配がなくなって気持ちが落ち着くこと」(新明解国語辞典)とあるが、自分が安心かどうかはその人にしかわからない。10万回の飛行に1回死亡する確率のある飛行機に乗って安心できるかどうか、これはあなたがどう感じるかによって異なる。

 

何かが「安全、安心」でなければならないというのは、安全であるという計算可能な確率と、その当人しか感じ取れない主観的な安心;「心配がなくて心が落ち着くこと」の二つがなければならないということだ。 

言い換えれば「何かが安全である確率はこれこれだが、これを安心であるとして受け入れますか?」というたった一つの問いと、イエスかノーかという二つに一つの答えだ。これは何かが安全である確率を示し、それを安心と感じるかどうかという問いに答えてもらうしかない。

 

 安全は確率としてわかるが、安心は人に聞いてもわからない。自分自身で判断するしかないあなた自身の判断なのだ。