子供の頃、自由になりたいと漠然と思っていた。
誰にも束縛されず、誰も束縛せず、何も束縛されず、何も束縛せずに、例えば親、兄弟、友達、教師、近所の人々、集めたお人形、思い出の貝殻、大切にしてた折り紙、人から貰った手紙、そんなものを総て捨てて、総てそのまま残したままで、何時だって何処かに行きたいって思ってた。何時だって何処かに行けるって思ってた。
だから、私はきっと、大切なものが少ない。全く無いとは言わないけれど、何時だって捨てられると思ってる。何時だって捨てられるって思ってた。今は一寸、あんまり自信は無いけれど。
だけど、私は子供だから、働く為の年齢に達しておらず、食べる為のお金が無く、生活する場所が無く、だから何処にも行けないのだと、思ってた。
大人であれば、お金があれば、何も束縛しなければ、されなければ、自由になれる、と。
空には自由があると思ってた。鳥には翼があり、何処にでも行け、そうであるが故に、鳥は自由であり、羽ばたく空は自由だと。
ある日、ふと、嗚呼、空にも自由は無いのだ、と思った。
鳥達は自分たちの縄張り―領域外を侵さない。自分たちの分をわきまえている、とでも言えば良いのだろうか。其れは彼らが、縄張りの外が危険であることを知っているからなのだろう。
自由という代物は四方八方を不自由という名の柵で囲んだ中に存在するのだと思う。柵の外は、自分の命を脅かす恐ろしい物がごろごろと転がっているから。安全を確保した柵の中で腹を見せ手足を伸ばして、だらしなく、だらけて、そうしても身の危険がないと、例え其れが一瞬だけであったとしても、思える状態で初めて欲されるものなのだろうと思う。そうでなければ、自由というのは恐らくは、岸も船も見えない、唯空と海が広がるだけの大海に一人放り出されて置き去りにされるのと何ら変わりはしないのだと思う。
何も束縛せず、束縛されずに存在する事は不可能であると言い切っても遜色は無いほど、有り得ない事だと思う。例えば思考や言論ですら、倫理観、良心、経験、書物、関わった他人、世間への体裁、などに束縛される。何も摂取しなければ生きていけないように、身体を保つ事すら、他の何かと繋がらざるを得ない。
”完璧に自由”である状態というのは多分、有り得ない状態なのだと思う。
自分の安全を確保する為に、他人の安全を確保する。四方八方に一つ一つ柵を立てて、この中は安全だと不自由という檻を被せて、そしてきっとその中にしか、欲されるような自由は無い。
自由である、という事には不自由である、という事が前提として必要なのではないかと思う。
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