カーズは覚えのない感覚に襲われているところに、玄関脇の電話が鳴った。
電話の相手は、妻であるヒラリーからだった。
内容は、カーズとヒラリーの子供であるサーチェが『いつもの学校からの帰宅時間が過ぎているのに帰っては来ない』という連絡。とある事情から家族とは離れ、単身地下街と呼ばれる極貧地帯で生活を続けていたカーズ。
不安に駆られ、ゴールデンゲートと呼ばれる地上へ向かう。
世界中枢都市、バタウォ。
それは古くから世界を動かしてきた、経済大国。
この街は、二層に分かれている。
金の力で世界を動かしているゴールデンゲートと呼ばれる上の層、この街の人口が半数を占めていながらも貧困や飢餓に苦しんでいる地下街(アンダーグランド)と呼ばれる下の層によって成り立っている。
行き来は自由、規制さえもない。
ただ一度でも地下街に落ちた物は二度とゴールデンゲートに上がっては来れないという、言い伝えというか都市伝説があった。
『世界を動かせ、金で動かせ』
世界主要都市や加盟国から金を集めるバタウォは、金に頼り過ぎた。
多くの居住者は金に溺れ、犯罪の増加と不満の溝から生まれる悩みの種は尽きない。
ただ金持さえ持っていれば、衣食住は保障された。
しかし私は今、ゴールデンゲートには住んではいない。
私には成し遂げなければならない研究があったんだ。
地上のゴールデンゲートと地下街を、何本もの鉄道が結んでいる。
元来、都市部分を移転もしくは置くという計画だったらしいが高度成長期を迎え世界を動かす中枢都市となった今では、動かす必要がなくなったのだと聞いたことがある。
最寄りの駅から、徒歩5分ほどで久しぶりの我が家を目にした。
白い外観、両開きの大きな扉と妻が選んだデザインだった。
「ヒラリー、帰ったよ。」
「あ、あなた。おかえりなさい」
一歩踏み入れた匂いは、久しぶりというよりも初めてに近い。
茶色で縁取られた片側のドアを開けて広い玄関を見渡せば、いつものように始まる妻の愚痴を嫌って私は奥へと足を進める。
「サーチェは?」
「まだなのよ。本当にどうしたのかしら」
「どうしたんだろうな。いつもはもう帰ってくるんだろう。ああ、もしかしたら友達とでも遊んでいるんじゃないのか?」
「ないとは思うんだけど、いつもなら学校が終ると直に帰って来るのよ。こんなに遅いのは初めてだから、とっても心配なの」
二階建ての1軒家。
リビングのソファに項垂れる妻のヒラリーは、涙を今にも流れ落ちそうなほどに溜め込んでいた。
きっと帰ってくる。
そう不安を消そうと、拭おうとしていた。
私は踏みなれない大理石の床と、その上に敷かれたふかふかの絨毯とを何度も往復して、息を溜めてから吐き出す。
その繰り返しで精一杯だった。
「もうあなたに電話してから1時間よ」
「こんなこと、今までなかったんだろう?」
「ええ、どうしましょう。あの子は普通の子じゃないのよ」
「分かってる。家の中は探したのか?」
「ええ、何度もよ」
「私も一応、見てこようか?」
「え、あ、大丈夫よ。あなたは私の言葉を信じてはくれないの?」
「わかったよ」
「あなたやっぱり警察に相談しましょう」
「いや、まだ」
「だから、あなたは」
「いや違う」
「何が違うのよ」
「ヒラリー。もう少し待とうと言っているんだ」
「こんなに待っても、あなたは“まだ待っていろ”というの?」
「ああ、そうだな」
「だから反対だったのよ、研究する為だからって地下に行くだなんて」
「ヒラリー。それは今関係ないだろう」
「そうね、ごめんなさい」
喧嘩の火種は、いつもの私の研究だった。
上層のゴールデンゲートは公な研究施設でなければ、新薬研究の費用や設備は足らない。幾ら金を払ったとしても上層の法律では新薬に関する臨床や実験は、政府の認可が下りた研究機関ではないと、好んで研究が出来なかった。
だから、私は地下に降りたんだ。
私は、娘にとってヒーローでいたかったんだ。
「どうだった?」
「ええ。直ぐに来てくれるそうよ」
「そうか」
「あの子は。サーチェは必ず帰ってくるわ」
「ああ、そうだな。ヒラリー、あの子は強い子だよ」
「ええ」
妻が警察への電話が終ったのだとリビングに戻ると私の隣に腰を落した。
病が発症したのは、娘のサーチェが2歳を過ぎた春の終わり。
床を這いながら前に進んだりしている娘の異常を見つけたのは、留守番をしていた偶然にも私だった。
医者だからとか内科医だからではなく、一人の娘の父親として正直焦った。
左足を引きずっている娘を見たときは、どうして良いのか分からなくなったんだ。
私が勤務していた大学病院の小児科医と脳外科医に通い詰めて問い質すように聞けば、答えは脳にある運動神経が機能していないと診断された。
先天性の脳性麻痺。
ただ娘のサーチェの場合は左足に強く残った為、リハビリで右足は医学状正常になったとしても杖を使わなければ歩けなくなってしまった。
そのことを誰より苦しんでいたのは妻のヒラリーだ。
数年は鬱にまで悩まされていたのだが、例え障害という隔たりを持っていても強く生きていく彼女の笑顔に癒されて、今では以前から勤めていた出版の仕事へと復帰するまでに回復した。
そんな彼女から、サーチェを奪ってしまったらと思うと、言葉にならない。
「奥さん、他に思い当たる場所は」
「他には?」
ヒラリーは私と顔を見合わせてから、首を横に数回振った。
制服を着た黒人の警官と白人の警官が玄関先、私と妻の前で身振り手振りを交えて回答を促していた。
閑静な住宅街に家の中へまで鳴り響いたサイレンの音、警察が到着してから30分が経過してもサーチェの行方は分からなかった。
「ではカーズさん。我々はもう一度、この辺を含めて周囲を探してまいりますので」
「はい。よろしくお願いします」
2度目の挨拶を交わしたら、遠くに聞こえたサイレンの音が寂しく思えた。
項垂れた妻を横に置いて手を握りしめるとどう声を掛けたら良いか、何を伝えれば良いのか。
分からなくなっていた。
ヒラリー
私は君に、どんな言葉を掛けてあげられるだろう。