前回までのあらすじ
世界都市、タバウォ。華やかなこの街の地下街で、カーズは毎日を研究に費やしている。ところが或る日『娘が学校からの帰りが普段よりも遅く、心配だ』という妻からの連絡でゴールデンゲートにある自宅へとカーズは向う。妻と自宅で、娘の帰りを待つが不慣れな場所ということもあって落ち着かなかった。
無事で帰ってきて欲しい。
ただ、それだけを願っていた。
「あなた、もう」
「ヒラリー、お前が諦めてどうする?サーチェだって、きっと…」
続かない言葉。
ため息すら出ない喉の奥で染み入るのは、体液の粘着質。
右手に包んだ妻の手をぎゅっと握っていることでしか、落ち着かない。
「あなた、大丈夫なのよね。大丈夫よね」
「ああ大丈夫さ」
いつしか、私の方が緊張に平伏している。
音が支配しない空間。緊張を切り裂くように階段の横に設置してあった次世代型、最新家庭と呼ばれる電話が鳴り響いて自動的にテレビへと転送されたら音声が流れ出した。
普段なら表示される相手の名前は、表示されてはいない。
「お宅、タバンさんの家?」
「ああ、そうだが」
不気味な声だった、低くて濁った排水溝へと流れるような声。
私は思わず、唾を飲み込んでいた。
「えぇ、あッ。サ、サーチェという子供を預かった。それで…」
時間までもが止まったように感じた。
その言葉に私は、ヒラリーと思わず目を合わせる。
「あなた」
「しッ、静かに」
自分の唇に人差し指を縦に押し当てると、ヒラリーに見えるようにする。
不気味な男の声はサラウンドスピーカーを通して大きく怒鳴ってきた。
「おい、聞いてんのか。こらッ」
「あ、はい。すみません」
思わず私は声にした。
妻は口元に手を当てて、今にも出そうな声を塞き止めているように見えた。
「こ、こっちはお前の娘を預かってんぞぉ。話を聞いてくれないか」
変わる口調や甘噛み、私は素人の犯行なのかもしれないと頭の中で過っていた。
上手く話せれば、無事に娘は帰ってくるかもしれないと期待が募る。
「あ~、そう金だ。金を用意してくれ」
「ちょ、ちょっと」
「当たり前だろ。み、身代金だろうが」
「は、はい」
「そうだな。50ドルだ、な」
え、たった50ドル。
私の中では、そう感じてしまった。
ゴールデンゲートは、言わずとも知れた金持ちの集まる富豪の街。
年収が一人当たり1億ドルはくだらない街で50ドルという言葉には驚いた。医者が儲かるとか、自慢したいだけと思われたくはない。が、この街の医者の年収さえ1億ドルには至らないにしても5000万ドルぐらいにはなることは街に住む者なら知っている。なぜなら政府の方針で1000万ドルを超える所得の場合はネット上で公開されるのだ。
それを考えれば、安すぎると思ってしまった。
愛しい娘の大事な命と、世の中で一番嫌いな金を天秤にしている。
耳元では声が刃のように鋭い音が脳に伝っていた。
「ん。な、なんだ。不満なのか?」
「い、いや」
「警察にはもちろん言うんじゃないぞ。分かってもらえるな」
「ああ」
「あ、あと。金はカーズさん、あんたが持って来てくれ」
「え」
「カーズ、いいよな」
馴れ馴れしく名を呼ぶ声。
私は押し殺すように『はい』とだけ答えた。
すると電話の向こう側で『よろしく』という言葉の後に、金の受け渡す場所を付け加えて伝えられた。
『あ、え~っ、エリー運河第3倉庫、夜の8時半。もちろん、お前ひとりで来い。警察に言えば娘の…あ、か、可愛い娘の命は保障できないから。んじゃ、よろしくぅ』
エリー運河。
山間部からひとつに集まり流れる都市主要運河である。
伝え終わると、電話は一方的に切られてしまった。
この世界の技術では警察だけではなく電話を掛けられた場所の特定など家庭の電話にも仕組まれているから容易にできるのだが、今は特に必要としていなかった。
私は妻を残すと家から飛び出すようにして急いだ。
とにかく、私は慌てていたんだ。
相手との約束までの時間まで30分を残して、倉庫前へと到着すると右手に握った封筒を確認した。本当にこんな安い金で娘は帰って来るのだろうかと、不安以上に疑いを持ってしまう。
サーチェ。
私は、お前を救えるのだろうか。
待ち合わせ時間まで待てなかった私は第3倉庫の右の扉を横に引いた。
ずっしりと重く、両手を伸ばして引く。
「カーズ・タバンだ。言われた通り一人で来た。娘を、サーチェを返してくれ」
荷物を運ぶ貨物船専用の倉庫だろう。
大きな正方形を模った木の枠、製品番号であろう数字だが順番は守られることはなく2段に置き重ねられている。
倉庫内は、夜の闇より深い色が包んでいたから携帯するように妻に言われたライトを右手に構え、左手は体より遅れて進むようにした。
闇の中に消えゆく声、寂しさだけ重ねては不安をより倍増させる。
「おーい。うぉーい。誰か、誰かいないのか」
ガタッ。
私の声に反応して物音が聞こえた。
「うるさいな、聞こえてんだよ。ん?なんだよ、あんた」
「娘を、サーチェを返してくれ」
声のする方からヘルメットの上に付いたライトを私に向け、こちらに歩み寄る人影がある。
体を身震いさせるほどの緊迫感が襲って来た。
もぞもぞと蠢く薄暗い影が声を吐き出した。
「娘?なんだ、それ」
知らないふり、なのか?
身構える体には自然に力が湧いてくる。
「娘を、ここで預かっている。と、電話が」
「聖なる夜にでも誘拐されたのか。アンタ、悲痛だな」
何か、変だと思っていた。
頭に過る中で私の手のライトが照らし出したのは、黄色の作業着を身にまとった黒人の男だった。
少し、顔はニヤケながら『ウィル・グエン』と名乗った。
「私は、カーズ・タバンだ」
「ここには、生憎だが俺しかいないぜぇ」
「そうなのか?」
「ああ、倉庫の夜の見回りと点検の最中だ。一通り見てきたが、誰も」
「そうか」
「残念だな。早く帰えったほうがいい、む」
「え」
「いや何でもねぇ」
「ああ、仕事中にすまない」
「いや、いいよ。丁度、終ったところだ」
閉めても良いか。と、私に気を使ってから大きな扉に閉めた。
そして彼に見送られ妻が待つ家に、一度戻ることを決めると私は足早に向かった。
『やはり何か、変だった』
次に胸の中で、芽生えた違和感は冷静に考えれば不可思議なことばかりだ。感じている違和感は、不快に変わりそうなほど自らの意思は際立ってもいる。
『機械音が混じった素人のような恐喝。妻の口調、なにより50ドル。あッ』
私は頭の中に過った思惑を確認する為、踵を翻して走り出していた。
階段を久しぶりに三段飛ばして駆け上がると、LEDライトで綺麗に飾り付けた大通りを大勢の人々が行きかう道、その隙間を縫うようにして、私は娘へのプレゼントを買いに目指した。
『そうか、どうして私は。私は、気が付かなかったんだ』
それは、2週間も前の話だ。私は、久しぶりに娘のサーチェと電話での話をすることができた日のことを思い出した。
地下街の家、黒い電話で3時間近くも会話が弾んでいた。
半年ぶりとなる娘との会話を私は心から楽しんでいたし、娘も嬉しそうな声がしたので思わずというところになる。
大半の話題が近づくクリスマスにはどんなプレゼントが良いかと私からの尋問にも近い言葉が続いた。
「そうだな。じゃあ、50ドルで私の大好物を買ってきてね」
「大好物?」
「うん。パパなら分かるでしょうぉ?」
「ああ、分かるよ。分かるとも」
あの日、私は娘と約束をしたのだ。
娘が話す大好物は、あの日から悩みの種だったのだが、それを数日前に思い出していた。
『50ドル』
何か可笑しいなと思ったのが遅かった。
私はいつもの悔やんでしまうことが多いから、全てが妻と娘に仕組まれたことなのだと解釈できてしまったんだ。
大通りから西に過ると玩具店、ホビーランドがあった。
馴染の店内、店主に顔を見せてから特集を組んで棚に並べている奥へと進むとお目当ての物が姿を現した。
娘が気に入っていて足らないほどだと、いつかの昔に電話で聞いたことがあった。
人気のキャラクター『リトル・ディービー』を手に取り、封筒の50ドルを店主へと渡すと足を家族が待つ家へと速める。
娘に会える。
今は、それが何よりも嬉しかった。