先月、大災害の被災地における復興の在り方を学ぶため、北海道の「奥尻島」に行ってきました。
函館から奥尻島行きのフェリーがでる江差港までをつなぐ鉄道が、私たちが行く2日前に廃線になってしまったそうで、路線バスで2時間半、北海道の原野と山林の中を付き進み、さらにフェリーで2時間10分・・・ようやく奥尻島に到着しました。
1993年(平成5年)7月12日午後10時17分、奥尻島北方沖の日本海海底で発生した北海道南西沖地震は、マグニチュード7.8、推定震度6で、日本海側で発生した地震としては近代以降最大規模でした。
震源に近い奥尻島は、火災や津波(最大遡上高は30.6m)で死者175人・行方不明者27人という大きな被害がありました。
特に津波の被害の様子は繰り返しテレビで放送され、東日本大震災以前は日本の津波と言えばこの時の映像が使われることが多かったように思います。
私は1997年にニュージーランドに住んでいた時、高校の授業で「TSUNAMI」について勉強しましたが、この時のテキストに使われていたのが奥尻島の津波でした。
実際には奥尻島が受けた被害は津波だけではなく、激烈な揺れによる地滑りでホテルが倒壊し28名が犠牲になったほか、火災などでも亡くなった方がいます。
しかし、やはり被害が甚大だったのは津波で、第1波が最も早く到達したところでは地震発生からわずか2-3分後でした。
津波の被害を最も大きく受けたのは、奥尻島南部にある三方を海に囲まれた「青苗地区」で、この地区は、津波は最大で高さ6.7mに達し壊滅状態になりました。(地区の人口1,401人・世帯数504に対し、死者・行方不明者109人、負傷者129人、家屋全壊400棟)
その後、奥尻島には年間予算の4倍近い190億円以上の義捐金が集まった他、国から900億円以上とも言われる多額の復興予算が投入されたこともあり、世界的にも有名な防災の島と変貌を遂げていきます。
まず住宅の高台移転が行われましたが、島には平地が少ないため、海岸地帯のかさ上げも広範囲にわたって行われました。
壁面の上の家が建っているあたりが盛り土をして造られた現在の地盤。
船着き場があるあたりが元々の地面の高さで、かさ上げの高さはこの地域で約6m。
奥尻島の北端・稲穂岬は「賽の河原」と呼ばれる霊場で、観光地でもありましたが最大12.3mの津波に襲われました。
現在は死者・行方不明者(16名)のための慰霊碑が建てられています。
青苗小学校は1階部分がピロティ(空間部)構造になっています。丸く見えるところは空洞になっていて、津波を受け流すための穴だそうです。
漁港はかさ上げするわけにはいかないため、漁港の上に高さ7.7m、面性4650㎡の人工地盤を建設しました。
津波が来た時には漁師さんが階段で直上の人工地盤に上がり、橋を使って高台に避難するという構造になっています。
高台に避難するための避難通路も多いところではおよそ10mおきに造られ、島全体では42か所が整備されました。写真は車イスでも避難できるスロープ式避難路。
左側に見える塔の高さは16.7m。昭和初期に建てられたこの塔は津波に耐えましたが、津波の際にはこの塔が波間に沈むほどに勢いで海が押し寄せたそうです。
地震の翌年に2億円以上をかけて造られたホールは、現在は使われておらず解体する費用にも困っているとのお話しでした。
総延長14kmの防潮堤は最大で高さ11.7m。万里の長城と呼ばれた岩手県旧田老町の防潮堤が高さ10mですから、いかに巨大かがわかります。
青苗地区にある慰霊碑「時空翔」。地震のあった7月12日に海に向かって石の正面に立てば、くぼみの中へ沈む夕日を見ることができるそうです。
奥尻島では震災後、急ピッチで復興が進みました。阪神大震災の2年ほど前だったこともあり潤沢な予算や義捐金などで、被災者の方々の生活再建はかなりスムーズに実現していったようです。
ところが、それは被災からの復興と、将来の災害への備えとしてはすばらしいものではありましたが、それまで恒常的に抱えていた離島ならではの大きな課題にまで対応するものではありませんでした。
それが、「過疎化」です。
ウィキペディアなどでは「震災の影響で人口が減少した」と記述されていることがありますがこれは誤りで、実際は昭和35年の7908人が奥尻島における人口のピークで、以降は徐々に人口が減少。
震災後10年以上経った2005~2010年にかけては日本有数の人口減少率を記録しており、現在の人口はピーク時の半分以下の2921人になっています。
どんなに立派な漁港や、どんなに堅牢な防潮堤を築いても、そこに生活する人がいなければ意味がありません。
復興期の建設ラッシュもとうの昔。奥尻町は経済的にかなり困窮しているように見受けられました。
離島では民間企業の参入が難しいことから、病院をはじめ、バス、温泉、あわびの養殖、自動車整備工場まで町が直営で担っており、合計ではかなりの赤字。町役場では窓ガラスを直す費用が無く、ベニヤ板が張ってありましたし、震災後に建てられた公民館やホールなども維持費、修繕費がなく次々と閉鎖しているそうです。
それでも、現在奥尻島では建設会社がワイナリーを経営したり、島全体で観光客獲得に取り組んだりと必死の努力がなされており、いくつかの分野では成果が出てきています。
それまでその町が抱えていた問題は災害後、そのまま残るか、むしろ悪化することが多い。だとすれば、災害をきっかけとして従前からの問題にも同時に取り組んでいく必要があります。
災害時の事業継続などについては色々なところで語られ、検討されていますが、今後は自治体に求められる災害への備えの一つとして、被災後のコミュニティーの再生と、将来に渡ってこの町をどのようにしていくのか、その両方をあらかじめある程度計画しておくことが大切であると学ばされました。










