興味深いというか、
今さらかという記事が、
twitterで回ってきました。
「東大・京大・早慶→一流企業のエリートが『日本ヤバイ』と言う理由」
副題が「出世を求めるのはもうやめだ!」ですが、
これはあまり記事を反映していません。
私が考えるおすすめの副題は、
「英語の専門家になると英語が使えなくなる!」
かな?
英語がうまくなることに特化してしまうと、
(スピーキング満点はすごいけど)、
「英語を使って何を話すべきか」を考えない。
上智の教授(名前ど忘れ)が言ってましたね。
追記:スティーブン・ギブンズ教授でした。
(グローバルな会議の場に出席する日本人は)、
仮に完璧な英語を話せたとしても、
何をどう言っていいかよくわかっていないのだ。
大学のグローバル化を批判した記事でした。
いずれ別の記事で書きます。
英語の「専門家」になってはいけません。
「使い手」にならないと意味がない。
「専門家」と「知識人」の違いについて、
(知識人というネーミングは反感を買いそうですが)、
佐伯啓思氏が語っていました。
「専門家」は言葉通り「専門」なわけだから、
ものごとの一面しか見ていない。
全体を見渡せる「知識人」が求められている。
競馬などのベタな例だとわかりやすいです。
元一流ジョッキーが馬券を当てられるわけではない!
みたいなことですね。
本当にベタで自分でもびっくりしてますけど。
私の仕事である家庭教師や塾講師に置き換えると、
「併願システム」だの、
「お得な学校」だの、
「過去問傾向からの出題予想」だの、
「入学してからのおすすめサークル」だの、
そういったことに詳しくなればなるほど、
最も重要なはずの、
「世の中の動向」
「受験者本人の適性や志望動機」
がおろそかになってしまう感じでしょうか。
また自分の首を絞めている気がしなくもないですが、
教師や講師に対して、
大切な我が子の将来の相談などしてはいけません。
しょせんは「専門家」ですから。
進学先を選ばせることすらも、かなり危険です。
家庭教師なら、
本人と距離が近いだけに、
まだ少しマシかも。
本人の隠れた適性を見抜くくらいはできますが、
世界全体を見渡せる「知識人」では、
もちろんないわけです。
そんなひとに将来を相談するなんて、
アンカツが勧める馬の単勝に、
全財産突っ込むくらい危険です。
まあ、相談しないか。
冒頭の記事に戻ります。
「エリートってのは知識人的役割を担うはずだったんだけど、
いつの間にか単なる専門家になっちゃってたね」
これは明治にさかのぼって夏目漱石のスピーチ以来、
日本ではもうずっと言われ続けていることでした。
どれくらいヤバイかというと、
イメージとしては「周回遅れ」な気もします。
私たちが受けた教育といまの子供が受ける教育、
ほとんど変わっていませんから。
あえて言えば「アクティブラーニング」ですが、
昔からやっていた学校も多くありますからね。
ただ、記事の最後のページにある、
「自分から動いて相手を知ろうとする態度」
これはいまの子の方が「ある」んじゃないかと。
、、、、あくまでも一部の子、
しかもちょっとだけ、ですけど。
この辺に望みを託しつつ、
今日も仕事に行ってきます^^
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