KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー

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歴史時代小説が好き。大河ドラマ・時代劇好き。が講じて、

気まぐれKABUTOが、タイムトラベルして、歴史ヒストリーします。

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1912年(明治45年)7月30日 明治天皇睦仁死去。


1912年9月13日明治天皇の大喪の日、妻静子とともに殉死




9月13日に乃木希典 は体中に勲章をぶら下げた仰々しい軍服写真を


当日にわざわざ撮影させて妻を道連れに心中しました。


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乃木希典の無責任極まりない天皇後追い心中は


明治という腐乱の時代を象徴する空疎な出来事でした。


寒々しい自己演出の心中事件によって日露戦争における


陸軍大将の無能の検は葬られ、


あの戦争で虫けらのように殺された膨大な数の貧しい一家の働き手たちは


一顧だにされることはなかったのです。





うつし世を神さりましし大君の みあと慕ひて我は行くなり


又他の一葉には


神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにおろかみまつる


と認め夫人も亦た


出でましてかへります日のなしと聞く けふの御幸に逢ふぞ悲しき


と水茎の跡美はしく認めて、遺言書と共に御真影の前に捧げぬ。


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今大正元年9月13日午後8時夕月落ちし大内山の彼方、


一発唸くが如き砲の音の聞ゆるは


今し先帝の御霊轜が宮城を首途せきせ給うを告ぐる合図なり。


将軍は屹と身を構え佩用せる大綬を畳んで床の上に置き、


軍服の釦を胸を押しはだけて軍刀に仕込みたる


備前兼光の名刀を逆手に握り、


剣光一閃左の下腹に突き立て更にキリキリと右方に引廻すこと三回、


其れより鍵の手に上に一寸程切り上げ


最後に軍刀を以て頚動脈を切断し


其の儘入口の方に頭をむけて横ざまに倒れ伏しぬ。






乃木希典殉死の影響


乃木希典の殉死は庶民に賞賛され、乃木神社まで創建されることになります。


同時にその死は、様々な論議も呼びました。


夏目漱石は作品『こゝろ』の登場人物に、


「生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、


何方が苦しいのだろうと考えました」と語らせ、


森鴎外は、『興津弥五右衛門の遺書』の中で乃木の武士道を讃えます。


一方で、殉死を冷ややかな目で見ていた志賀直哉などは、


「馬鹿な奴だ」と日記に記しました。


ところが明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、


後に政治的・軍事的に徹底利用されることとなりました。



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明治帝の崩御に殉じた、日露戦争の輝ける英雄、及木希典。


幾多の栄誉を一身にになった彼が、何故死を選んだのか。


"軍神"の内面に迫り、その人間像をさぐる問題作


内容



乃木希典――日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、


陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、


学習院院長、軍事参議官、宮内庁御用掛など、


数多くの栄誉を一身にうけた彼が明治帝の崩御に殉じて、


その妻とともにみずからの命を断ったのはなぜか。


”軍神”の内面に迫って、人間像を浮き彫りにした問題作。

伊達政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、

家臣・支倉常長を副使に任命し、

ローマに使節を派遣しました。


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遣欧使節団は、慶長18年9月15日 (1613年10月28日

サン・フアン・バウティスタ号で

牡鹿半島月ノ浦 (現在の宮城県
石巻市 )を出帆し、

ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコ へ向かいました。



伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功し、

いわゆる「天下人外交」を行うこととなりました。


慶長遣欧使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であった

と言われています(エスパーニャとの軍事同盟

さらにはそれを利用しての倒幕 があったとする説もあるが、

この説への反対意見もある)。


一方、この使節はルイス・ソテロが自らの宣教師兼通訳と

言う立場を利用して布教上の目的から企てたものであり、

政宗らの権威がそれに利用されたに過ぎないとの主張もあります。


政宗は仙台領内において、

セバスティアン・ビスカイノの協力によって

ガレオン船
サン・フアン・バウティスタ号 を建造しました。



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この造船には、幕府から派遣された船大工も参加していました。


当時、フェリペ3世を国王とするエスパーニャ帝国は、

世界最大の植民地帝国でした。


エスパーニャは、

ガレオン船の建造技術を国家の最高機密としており、

造船技術を外国に漏洩した者を死刑に処していました。


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政宗はルイス・ソテロを外交使節の正使に、

家臣・支倉常長を副使に任命し、

ソテロや常長を中心とする一行180余人を

ヌエバ・エスパーニャ (現在のメキシコ )、

エスパーニャ(スペイン)、およびローマ へ派遣した。


その日が、慶長18年の9月12日です。






現在、サッカーのワールドカップ3次予選、ウズベキスタン対日本戦、前半戦終了。1点先制されちゃった(ノ_-。) 頑張れニッポン('-^*)/
9/6 23:58

岡崎のヘディングシュート決まって、同点だ!
9/7 0:26

サッカー、ウズベキスタン戦は引き分け(ノ_・。)アウェーだったし、勝ち点1でも、まっいいか(^O^)/
9/7 1:02

ロンドン五輪アジア最終予選!なでしこジャパンVS北朝鮮!!いよいよキックオフ(^O^)/なでしこジャパン、川澄奈穂美のゴール宣言!がんばれなでしこジャパンヽ(゚◇゚ )ノ
9/8 16:29

サッカー女子のロンドン五輪アジア最終予選で、日本代表(なでしこジャパン)は無失点でハーフタイムへ!がんばれ(^O^)/なでしこジャパン!!
9/8 17:21

サッカー女子のロンドン五輪アジア最終予選で、なでしこジャパン,ドロー!残念!!
9/8 18:24


岸和田城といえば岡部藩、と地元の大半の方が答えるでしょう。


事実、徳川三代将軍・家光の時代に岡部宣勝が城主になって


以来、明治維新まで十三代に渡る岡部公の治世の元に、


現在の岸和田の街の基礎が固められたといわれています。


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また、昭和5年、岡部氏が城地を岸和田市に寄贈した事で


今日の城址公園があります。


ただ、現在の城郭を整備したのは豊臣秀吉の叔父に当たる


小出秀政だといわれています。




反秀吉の一大勢力として紀州周辺で大きな勢力を誇った、


根来衆・雑賀衆への押さえの前線基地として、


秀吉が多重の堀に囲まれた広大な城を作らせたのだす。


大坂の陣により豊臣家滅亡後に、


豊臣氏ゆかりの小出氏は但馬へ左遷され、


松平(松井)康重が丹波篠山から入ります。


松平康映に継いで、播磨山崎へ。


摂津高槻から、岡部宣勝5万3千石で入って、


以降岡部家の支配で、


明治維新まで13代に渡る治世が続くこととなります。


岡部家は元々今川家の家臣だったが、今川家没落後、


武田家を経て、徳川の臣となったもの。


家光は何かと不穏当な噂もあった紀伊徳川家への抑えとして、


岸和田に岡部宣勝を配したともいわれています。





別名、千亀利(ちきり)城猪伏山縢(ちぎり)城など


と呼ばれています。


現在の天守閣は3層ですが、焼失した天守閣は5層。


天正15年(1587)に近世の城として


小出秀政が大改修を行っています。


慶長2年(1597)、5層の天守閣が完成。


元和5年(1619)、松平康重が入封し城下町の


整備を行なっています。


寛永17年(1640)、岡部宣勝のとき、再び大改修が行われ、


伏見城の櫓と城門が移築されました。


このとき、総曲輪を持つ城となりました。


明治に本丸・二の丸の石垣と水堀を残し破却されました。





そろそろ岸和田城のご案内を始めます。


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岸和田城(千亀利城)です。


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入場は、大人300円。中学生いかは、無料。


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本丸への虎口(復興多門櫓)から入りましょう。


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入り口には、黄色いジャンパーを着た、


無料ガイドさん(一般市民のボランティア)が待機している


はずなんですが、


ちょっと席をはずしているみたいです。(笑)


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入り口でパンフレットもらえます。


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順路に沿って天守閣に向かいます。


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岸和田城址碑です。漢文なのでわかりましぇん。


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道なりに、どんどん進んで行きましょう。


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大釜から左に進みます。

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さすが!大きいですね。岡部氏記念碑。


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復興天守と小天守が見えてきました。


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八陣の庭と言って、庭園設計の第一人者、


重森三玲さんによって設計監督されたもののようです。



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小天守から、いよいよ登ります。


中は博物館になっているみたいです。


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受付側には、記念スタンプもあります。


チケット裏に押してみました。


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博物館内部は、撮影禁止で写真は撮れませんでした。


1階には、岡部家の歴代当主の肖像画(複製)や説明。


2階では、「岸和田藩と村・町の古文書」などの


展示をやってます。


展示物の中に気になるものを発見しました。


それは、徳川家康から岡部長盛さんに送られた感状


(感謝状です)解説によると、「丸子合戦で真田軍を


追い散らした」とありました。


丸子合戦は、真田軍と徳川軍が戦った、


第一次上田合戦の一部のようです。


岡部家には、家宝の「丸子の槍」があるそうです。


そしてもう一つ気になったもの・・・・・・。


江戸時代に12回朝鮮国から友好使節がやってきた際、


うち5回は、岸和田藩が接待役になったそうなんです。


そのうち、延享5年(1748年)宝暦14年(1764年)


岸和田藩士の安井緑畴(りょくちょう)と使節の間で


交わされた筆談メモなどをまとめた巻物が展示されており、


どんなことが書かれているかまたまた解説があったのですが・・・。


「岡部氏は泉州の太守なのに、なぜ美濃守なのか」


と使節が質問したようなんです。


面白いこと聞きますねぇ~。


で、実際にその当時の人です。


安井緑畴さんは何と回答したのか?


とっても気になったのですが、


そこまでは解説されていませんでした。


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天守閣の最上階で人前結婚式を挙げられます。


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人前結婚式(イメージ)


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天守の廻り縁から岸和田の街を一望できます。


すぐ側に高校もありますし、吹奏楽部の音色や


野球部の掛け声やバットで球を打つ音。


お城にいるのに、なんかとても不思議な気分です。


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天守閣前の庭園。この庭は「八陣の庭」と呼ばれ、


諸葛孔明の兵法の八陣(大将を中心に天・地・風・雲


・龍・虎・鳥・蛇)をテーマに石組みを配した石庭で、


天守閣から俯瞰すると、その全景はなかなかのものです。


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天守から出て、裏側に廻って、見上げてみます。


天守台(石垣)の上に塀があります。


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お城の向かいには、公園があります。


春にはさくらの花見で賑わいます。


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千亀利公園(二の丸跡)


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帰りは、お堀に沿って廻ってみます。


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お堀周りを歩きながら、いろんな角度から撮影してみました。

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春なら桜の花が、美しくしいんだけどなぁ~。


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規模としては、小さいですが美しいお城です。


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岸和田城の南側に位置する「三の丸神社」、


みなさんはご存知でしょうか。

・・・岸和田祭りの始まり。。。


ときは元禄16年(1703)に、


京都の伏見稲荷を城内三の丸に勧進して始まります。


神社内の説明によると「稲荷」は「稲生り」と云われ、


奉神「御食津(みけつ)神」に、昔「三狐」の字を当てたことから、


狐(きつね)がその使いとして親しまれ、


その五穀豊作・産業発展の神さんとして、


信仰されるようになったとされます。

江戸時代の宮入は、城内に地車を曳き入れ、


人々は太鼓をうち鳴らし、


二の丸付近で「にわか」や「狂言」など各町自慢の「芸」を、


岡部の殿様に披露。


三の丸稲荷にお参りしてから、岸和田城の鎮守でもある神明社


牛頭天王社・現在の「岸城神社」)にお参りした


と伝えられます。


のちに明治の廃藩置県のため城内がさびれ、


三の丸稲荷への宮入りが、百姓町の岸和田村の鎮守である


現在の岸城神社への宮入りのみに変わってきた


と伝えられています。。

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岸城神社岸和田城の鎮守神社として知られる神社で、


1361(正平17)年頃、農民が五穀豊穣を祈って築いたのが


始まりとされている。


地元住民から「岸城さん」と呼ばれ親しまれており、


縁結びの神としても篤い信仰を得ている。


約300年の伝統を誇る、


勇壮な「岸和田だんじり祭」はこの神社の例祭で、


14台がこの神社に宮入りします。


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■JR天王寺駅より
 ①JR環状線 新今宮駅下車 料金120円

 約1分・・乗換え・・南海本線急行関西空港行き

 岸和田下車 約25分 料金大人480円・・・徒歩約15分
 ②南海岸和田駅から普通電車乗り換え、
1駅目蛸地蔵駅

 約2分 料金同じく大人480円、・・・ 徒歩約8分

岸和田城周辺まち歩き周遊キャンペーン

■「日替わりガイドウォーク・イベントに無料で参加!」


岸和田城周辺まち歩き周遊キャンペーン「まつり前 岸和田城下町」明智光秀◆戦国時代の謎と本徳寺「明智光秀肖像画」ご開帳!

日時:9月10日(土)午後午後3時

集合場所:岸和田駅集合~午後6時:蛸地蔵駅解散

参加費:無料/申込締切:9月1日

【アウトライン】

明智光秀公の人物像、本徳寺ご住職による

楽しいお話で考察しましょう





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と、いうわけで今日は、待望の本徳寺にお邪魔しました。


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おぉー!すでに本堂では明智光秀さんおります。
「あっ!」「おっ!」「へぇー!!」とか言いながら参加者は順番に鎮座。



和尚さんは,テキパキとお抹茶のふるまいを指示され・・・・・・。
「みんなお茶のんでなぁ」「まだお茶ない人、いませんかな?」


あまりにも普通に肖像画を見せていただき・・・ええんかなぁ?


「しゃ、しゃ、写真撮っていいですか?」
和尚さんから「えぇよ」とのお返事に・・・・・・。
堰を切ったようにパシャ、パシャ、パシャ、パシャ。・・・ええんかなぁ?


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落ち着いたところで肖像画がある縁起、明智光秀について
興味深いお話が続きます。


本徳寺さんは元々、

岸和田市のお隣の貝塚市に「海雲寺(かいうんじ)」というお名前で存在して

いたのが、岸和田藩主(岡部行隆)の命によって今の地に移されたそうです。



海雲寺は、明智光秀の息子とも言われている、

南国梵桂(なんごくぼんけい)が建てたと言われているそうで
それで明智光秀の肖像画がこの本徳寺に伝わったんじゃないかと

いうことでした。


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「えぇーここに書いてあるのが(つんつん)・・・はっきり書いてあるのは

この絵が"写し"やから(つんつん)。」


「なぬ!?写し?」どこか参加者の心中にざわめきが・・・・・・。


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ちょっと見ずらいんですが、肖像画に書かれている「賛」についてですが、


賛とは、画賛のことで、鑑賞者が人物画にちなんで制作した文章のことで、

その人物の成し遂げた事柄を述べ賞賛する言葉です。
賛の中で「放下般舟三昧去」という文字が見て取れると思いますが、

この文字が物議をかもし出しているそうで「修行三昧をしていたが、

ここを去っていった」という意味だそうです。

息子が住職となった寺で、光秀がしばらく身を寄せていたと思わせる一文だそうです。


なお、有力説としては、
①非業の死を弔う
②本徳寺を去って、東照宮天海僧正になられた
の2つがあります。

誰が描いたものかは分からないけれど、
身分ある人の絵はそれなりの絵師が書くそうなので、

この絵もある程度の人が描いたんじゃないか?とも、おしゃっていました。


うーん、とっても興味深いです。


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「まあ、今日こられたみなさんには特別に・・・」


和尚さん、一旦奥の御簾に隠れたかと思いきや、
おもむろにもう一本の掛け軸をご披露・・・


またもや本堂に
「あっ!」「おっ!」「へぇー!!」という声が・・・


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和尚さんの粋な演出、えぇ味出してます。


原本を数枚に分けて写真を写し、

繋いで作られているそうで,

複製と言ってもほとんど本物を見ている感じdesu.


さすがのプロのお仕事。

繋ぎ目なんて分からないし、

本物だって言われたら信じてしまいそうです(笑)




これは満足度高し。まいりました。(笑)
岸和田ボランティアガイドのみなさんをはじめ、
商店街の永谷さん、本徳寺の和尚さん、みなさん芸達者です。
お話慣れている分、期待に対する満足度が違います。


こんな人々の面白さこそが、岸和田の面白さ。
機会ありましたら岸和田まち歩き周遊、心よりおススメします。


ちょっと、ずうずうしかったですが、


本能寺の変をどう思うか!も伺ってみました。


ご住職は、本当に光秀が起こした謀反なのかな?と疑問をもっておられました。
誰かが、光秀に罪をなすり付けたのではないかと。

南光坊天海のことや、光秀に関して言われているいろいろな説のお話もして下さいました。

初めて聞く説もあったので、とっても楽しかったです


ちなみに、

今回は複製を見させていただきましたが

本徳寺に安置されている光秀の位牌には、歴史的な謎があると有名だそうです。


位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」(慶長四年に当寺を開基した)

という言葉が書かれているらしく、本能寺の変以降も光秀は生きていたことになります。

このあたりのミステリーが歴史マニアや、

昨今流行の「戦国武将ブーム」好きの方々を刺激するようです。

光秀は幕府の知恵袋「天海和尚」となり、家康・秀忠・家光に仕えたとか・・・・・・?





川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及んだといいます。

実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみ、

一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦

永禄4年99日 1561年10月17日 )から10 18 ))を指します。


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川中島 は,現在の長野市にある。千曲川と犀川が合流する三角地帯です。
この地で,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信との間で,

5回の合戦が行われました。

一次合戦 天文 22年(1553

第二次合戦 :天文24年(1555  

第三次合戦 弘治  3年(1557

第四次合戦 永禄  4年(1561  

第五次合戦 :永禄 7年(1564


普通「川中島の戦い」 というと4回目の合戦を指します。




1561年8月14日,上杉軍は主力決戦を臨むべく,

1万3千の兵を率いて越後(えちご)を出陣しました。
8月16日には武田方の海津(かいつ)城の向かいにある

妻女(さいじょ) に布陣します。




武田軍は8月24日,千曲川をはさんで妻女山の対岸にある

茶臼(ちゃうす) に1万7千の兵を布陣。
しばらく両軍は対峙 しました。




8月29日,武田軍は千曲川を渡り,海津城に入ります。
この海津城 は,武田軍の軍師:山本勘助が築城した城で,

守りの堅い城だったようです。




海津城と上杉軍のいる妻女山はかなり近い。
距離にして約1.5km。
高所に位置する上杉軍からは,

武田軍の動 が手に取るように見えます。
上から見られる格好となった武田軍は,

不安な気持ちで過ごしたことだろう。




にらみ合いは,10日も続きます。
ついに武田軍は,上杉軍を山から引きずり出す作戦にでます。




軍を二つに分け,本隊(8千)は川中島に移動。
別働(べつどう)隊(1万2千)は,上杉軍の背後を攻撃し,

上杉軍を川中島 に追いやるという戦法だった。




俗に啄木鳥戦法(きつつき)戦法として名高い作戦です。




しかし,上杉軍は武田軍の作戦に気付く。
一説には,武田軍の米を炊く煙が今までになく多かったため,

攻撃が近いことを知ったと言われています。




上杉軍は,武田軍の裏をかき,夜半に山を下ります。
そして,濃い霧の中,武田軍に気付かれずに

千曲川を渡 ことに成功します。




江戸時代の儒学者:頼山陽(らいさんよう)が,

このときの情景を「鞭静粛々,夜河を渡る...」 と詠んだことは有名です。




明け方,濃い霧が晴れだしたころ,戦いは始まります。
兵の少ない武田軍は不利な展開となり,前半は上杉軍が優勢でした。




しかし,武田軍の別働隊が山を下りてきて上杉軍の背後を衝くと,

形勢は一挙に逆転します。
上杉軍は善光寺(ぜんこうじ)へと撤退します。


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こうして9時間に及んだ激戦は幕を閉じます。
ただ,武田方の被害も大きかったため,

はっきりとした決着はつかなかったとされています。




現在の町並みと,当時の川中島の景色は異なります。
しかし,流れる川の様子やそれを囲む山並みに関しては,

ほどんど変わっていないと思います。
川中島に行けば,当時の両軍が対峙した距離を,

実際に目にして感じることができるはずです。




すぐそこにいる宿敵の陣を眺めながら,

信玄や謙信はどんなことを考えていたのか。
川中島の景色を眺めながら,

二人の英雄に思いを馳せるのもいいと思います。



あと2分で…なでしこドローでも、五輪出場は決定!

首位のなでしこジャパンと2位の北朝鮮が対戦。


なでしこは、スコアレスで迎えた82分に先制点を奪ったものの、



ロスタイムに北朝鮮に同点弾を決められて1対1で引き分けた。






なでしこは過密日程の影響もあってか、前半から果敢に

プレッシャーを掛けてくる北朝鮮の積極的なプレーに苦しめられ、

5分に永里優季とのワンツーに抜け出した大野忍がシュートを打って以降、

相手にリズムを握られる時間帯が多く、ことごとく球際で競り負け、

なかなか相手ゴール前までボールを進めることができず、

守勢に回る場面が目立った。



しかし、なでしこも守備陣が体を張ってゴールを許さず、

0-0のまま前半を終了する。





後半に入って徐々にペースを取り戻し始めたなでしこは、

後半7分にMF大野に代えてFW安藤を投入し

巻き返しを図ったが、なかなか状況は変わらない。

KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー
日本だが、北朝鮮の攻撃を粘り強くしのぐと、

北朝鮮の運動量が落ちた終盤にようやくペースを握り、

そして迎えた82分、近賀ゆかりのクロスを永里が合わせようとするが、

GKがセーブ。

このこぼれ球が北朝鮮DFに当たり、ゴールへ吸い込まれた。

後半37分にDF岩清水のロングパスを、FW永里がシュート。

相手GKが弾いたボールが、

さらに相手DFの足に当たりそのままオウンゴールで先制した。

KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー
しかし試合終了まであと2分の後半ロスタイムに暗転。

ゴール前、フリーでボールをもらった

北朝鮮MFキム・チョランが同点ゴールで引き分けに終わった。

KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー
あと1分に迫っていたロンドンへの切符獲得はお預けとなった。



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3連勝で首位に立つ日本は北朝鮮と1-1で引き分け、3勝1分けで勝ち点10。

出場権獲得はこの試合終了時点で持ち越しとなったが、

同日夜行われた、中国-オーストラリア戦で中国が負けたため、

日本が中国との最終戦(11日)で敗れても勝ち点で上回るため、

日本の2位以内が確定、3大会連続4回目の五輪出場が決まった。




伏見城の戦いは、

慶長 5年7月18日1600 月26日 )から

月1日1600年9月8日 )まで行なわれた

関ヶ原の戦 の前哨戦


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー 徳川家康像


NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』も、

いよいよ「関ヶ原の戦い」に突入します。





慶長5年(1600)6月徳川家康 が会津の上杉征伐のために

東下するにあたって京都の伏見城に立ち寄り、

鳥居元忠 に城将となることを命じました。



このとき家康は胸中に、自分が会津に向かっているうちに

石田三 が挙兵するであろうことを予期し、

それを期待していたといわれています。


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー 石田三成像


しかしそれが現実のものとなると、

石田方勢力の諸将に囲まれたこの伏見城が

第一に戦火を浴びることは明らかであり、

いわば捨て城となります。



それを承知のうえで元忠に生贄となることを頼んだのです。
元忠はそれを覚悟のうえ承諾し、

さらには「今は会津への出馬こそ重大事でござるゆえ、

一人でも一騎でも多く召し連れなされませ

と逆に元忠と共に伏見城の守将を務めていた

内藤家長 ・松平家忠をも連れて行くように進言し、

暗に「生贄はそれがし一人で結構」と含ませたのです。

が、さすがに家康もこれを容れることはできなかった。


この夜、元忠と家康は幼い頃の思い出話などで時を過ごし、

今生の別れをかみしめました。

そして退出する際、「今宵が今生の暇乞いになります

との元忠の言葉に、家康は涙したといわれています。






果たしてこののち7月、挙兵した石田三成ら西軍は

総勢4万の兵で伏見城を攻囲しました。


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー 伏見城・大天守・小天守


兵を率いる武将も宇喜多秀家小早川秀秋島津義弘

・毛利秀元・鍋島勝茂・長宗我部盛親小西行長

ら40人以上という規模のものでした。

対する伏見城は2千足らずの寡兵でこれに臨みました。

城兵の士気はすこぶる高く、西軍は18日、圧倒的な兵力の差を背景に

降伏勧告を行ったが、元忠は「家康公の御命令ならともかく、

他の誰からも指図は受けぬ」と、頑として応じなかった。



またこれに先立って、島津義弘は家康より伏見城の留守を

頼まれていたために兵を率いて参じていたが、元忠は入城を許さず、

逆に発砲してまで追い払ったといわれています。

それで島津隊は身の置き所がなくなってしまったため、

やむなく西軍に与することになります。



19日午後より銃撃戦を中心に戦いが始まりましたが、

決死の覚悟のもとに一丸となって戦う伏見城はなかなか落ちなかった。

攻めあぐねた西軍方は忍びの者を放って内応者を作り、

それでようやく突入のきっかけを見出します。



7月30日、西軍の総攻撃が開始された。

鍋島隊が先陣を切って城内に突入、それに島津隊が続く。

西軍諸将の猛攻の前に松平家忠・内藤家長も相次いで討たれ、

残るは本丸を守る元忠のみとなった。

元忠は最後の最後まで自刃を拒否、

一人でも多くの敵兵を討つべく命のある限り戦ったという。

そしてとうとう慶長5年8月1日(1600年9月8日)に

鳥居元忠は討死、伏見城は落城しました。






4万もの軍勢を14日間足止めさせ、死傷者3千人と引き換えのことだった。
このときの伏見城の床板はのちに再建された養源寺の天井板に使われ、


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー 血天井


黙して激戦を物語る『血天井 』として有名である。





サッカーW杯アジア3次予選C組第2戦。


敵地でウズベキスタン代表と対戦。




日本は前半8分、


左スローインからクロスを入れられると、


ゴール前の競り合いからこぼれ球を


エリア左のジェパロフに右足でゴール左に決められ、


先制を許し、6試合ぶりに失点。




日本はその後も両サイドの突破とクロスに苦しめられ、


何度もピンチを迎えた。


44分には李忠成(広島)の左足シュートが


右ポストを叩く場面もあったが、


ペースをつかめないまま1点ビハインドで前半を終了




日本は1点を追う後半、


頭から阿部勇樹(レスター)に代わって


清武弘嗣(C大阪)を投入。




迎えた20分


内田篤人(シャルケ)の鋭い右クロスに


走り込んだ岡崎がダイビングヘッドで合わせ、


GKの手をはじいたボールはゴール中央に吸い込まれて


1-1の同点とした。




試合はそのまま引き分けに終わり、


貴重な勝ち点1を手にした。




日本は2戦を終えて1勝1分けの勝ち点4とした。



今朝の番組の「今日は何の日」のコーナーで

「国民栄誉賞の日」「伊達政宗の誕生日」だと知って、

今日のブログのテーマは、コレだ!と、思ってたんですが、

残念ながらこんな時間になってしまいました。



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2日前の9月3日に、王選手のホームラン世界最高記録のことを

ブログに書いたばかりですが・・・

1977年の今日、9月5日は王貞治が、

日本初の国民栄誉賞を受賞した日です。


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー

国民栄誉賞とは、前人未到の偉業を成し遂げ、

多くの国民から敬愛され、夢と希望を与えた人に贈られる賞で、

現在までに王貞治・古賀政男・長谷川一夫・植村直己・山下泰裕・

衣笠祥雄・美空ひばり・千代の富士・藤山一郎・長谷川町子・

服部良一・渥美清・吉田正・黒澤明・高橋尚子

15人が受賞しています。





国民栄誉賞は、日本内閣総理大臣 表彰のひとつです。

賞の運用は1977年(昭和52年)に定められた

「表彰規定実施要項」に拠って行われています。



内閣総理大臣や政権による表彰としては先に、

当時の総理大臣・佐藤栄作1966昭和41年)に創設した、

「内閣総理大臣顕彰 があります。



1977昭和 52年)、当時の内閣総理大臣・福田赳夫 が、

本塁打 世界記録を達成したプロ野球選手・王貞治 を称えるために

創設したのが始まりだそうです。



背景には、先に設置されていた顕彰、

内閣総理大臣顕彰 が「学術および文化の振興に貢献したもの」など

6つの表彰対象を定めていた反面、

プロ野球選手を顕彰した前例がなかったという事情があり、

そのため、より柔軟な表彰規定を持つ顕彰として

1977年(昭和52年) に創設されたのが国民栄誉賞です。




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9月5日の今日が誕生日の著名人:伊達政宗、ルイ14世、棟方志功、

ジョン・ケージ、浜田幸一、利根川進、フレディ・マーキュリー、

マイケル・キートン、草刈正雄、仲村トオル、久米田康治、國府田マリ子、

YOU THE ROCK★、伊達みきお、吉野公佳、山本博、菊地亜美、

キム・ヨナ、細田羅夢がいます。




伊達政宗といえば、

NHK1987昭和 62年)月4日 から12月13日 に放送された

大河ドラマ 「独眼竜政宗」を思いだします。



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主演は渡辺謙 。原作は山岡荘八 の小説『伊達政宗』で、

伊達家 を題材にした大河ドラマとしては

江戸時代伊達騒動 を描いた『樅ノ木は残った 』(1970年 )以来となる。

己の知恵と才覚によって仙台藩 62万 の礎を一代で築いた

奥州戦国 武将伊達政宗 の生涯を描いた。



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「戦国 BASARA」の主人公の一人。
独眼竜・政宗」 として有名な 奥州(東北地方)の覇者。


ゲームでは盗んだバイクで軍馬で走り出す暴走集団(?)、

チーム伊達を率いるキザでクールでスタイリッシュなナイスガイだ。
幼少の頃に患った病によって片目となるが、

父の後を継いで伊達家の当主になると次々と外征によって領土を拡大。




逃げる敵に父をさらわれて盾にされ、目の前で殺さなければならなくなり、

さらに母には毒殺されそうになるなど悲劇的な運命も辿るが、

東北の諸大名の連合軍を撃破し、ついに奥州の大部分を支配下に収めた。


KABUTOの、気まぐれタイムトラベラー

「戦国 BASARA」 では 「That All Right! いくぜ!」 とか、

英語を交えたセリフをしゃべる、

戦国時代にはあり得ないキャラになっているが・・・

(^^; 実は、伊達政宗と欧州の国との関係は実際に深かった。



政宗は

領土拡大の野心を捨てず、周辺国の農民一揆を扇動し、

それに介入する形で他国への侵攻を目論んだりしている。



そして江戸幕府が開かれた後、

徳川家 と 豊臣家 の関係が再び不穏なものになってくると、

イスパニア(スペイン)の技術者の協力の元、外洋航海も可能な大型船、

大航海時代で言うところの「ガレオン級」の船を建造し、

家臣の「支倉常長」を欧州に派遣、太平洋横断航路を経由して

メキシコ・イスパニアとの関係を持とうとした。



この使節の派遣は一応、幕府の許可を得て行われたものであったが・・・
船の建造は極秘に進められ、それに関する資料も全て隠滅されており、

政宗の何か壮大な「思惑」があったのではないかと言われている。



一説には、政宗 は 豊臣家 の挙兵と、

高齢の 徳川家康 の死による混乱に乗じて、

欧州諸国の力を借りて天下を狙おうと考えていたのではないかと

言われている。
事実、伊達家には 政宗 の死の際まで、

伊達家が天下を取り幕府を開いた時に施行するための

法律 「伊達式目」 が用意されていた。



結局、政宗 は 徳川家康 の死後は 徳川家 との関係を強化し、

外国との関係も絶って天下を狙うことはなかったのだが・・・
「関ヶ原の戦い」や、「大阪の陣」など、

徳川家 VS 豊臣家 の戦いが長引いていた場合は、

彼が活躍する時代が訪れていたのかもしれない。

豊臣秀吉 徳川家康 によって天下が統一されても

ワァ~!もう、SMAP×SMAP 始まった!!