1912年(明治45年)7月30日 明治天皇睦仁死去。
1912年9月13日明治天皇の大喪の日、妻静子とともに殉死。
9月13日に乃木希典 は体中に勲章をぶら下げた仰々しい軍服写真を
当日にわざわざ撮影させて妻を道連れに心中しました。
乃木希典の無責任極まりない天皇後追い心中は
明治という腐乱の時代を象徴する空疎な出来事でした。
寒々しい自己演出の心中事件によって日露戦争における
陸軍大将の無能の検証は葬られ、
あの戦争で虫けらのように殺された膨大な数の貧しい一家の働き手たちは
一顧だにされることはなかったのです。
うつし世を神さりましし大君の みあと慕ひて我は行くなり
又他の一葉には
神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにおろかみまつる
と認め夫人も亦た
出でましてかへります日のなしと聞く けふの御幸に逢ふぞ悲しき
と水茎の跡美はしく認めて、遺言書と共に御真影の前に捧げぬ。
今大正元年9月13日午後8時夕月落ちし大内山の彼方、
一発唸くが如き砲の音の聞ゆるは
今し先帝の御霊轜が宮城を首途せきせ給うを告ぐる合図なり。
将軍は屹と身を構え佩用せる大綬を畳んで床の上に置き、
軍服の釦を胸を押しはだけて軍刀に仕込みたる
備前兼光の名刀を逆手に握り、
剣光一閃左の下腹に突き立て更にキリキリと右方に引廻すこと三回、
其れより鍵の手に上に一寸程切り上げ
最後に軍刀を以て頚動脈を切断し
其の儘入口の方に頭をむけて横ざまに倒れ伏しぬ。
乃木希典殉死の影響
乃木希典の殉死は庶民に賞賛され、乃木神社まで創建されることになります。
同時にその死は、様々な論議も呼びました。
夏目漱石は作品『こゝろ』の登場人物に、
「生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、
何方が苦しいのだろうと考えました」と語らせ、
森鴎外は、『興津弥五右衛門の遺書』の中で乃木の武士道を讃えます。
一方で、殉死を冷ややかな目で見ていた志賀直哉などは、
「馬鹿な奴だ」と日記に記しました。
ところが明治天皇への忠誠心と敬愛による乃木の殉死は、
後に政治的・軍事的に徹底利用されることとなりました。
明治帝の崩御に殉じた、日露戦争の輝ける英雄、及木希典。
幾多の栄誉を一身にになった彼が、何故死を選んだのか。
"軍神"の内面に迫り、その人間像をさぐる問題作
内容
乃木希典――日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、
陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、
学習院院長、軍事参議官、宮内庁御用掛など、
数多くの栄誉を一身にうけた彼が明治帝の崩御に殉じて、
その妻とともにみずからの命を断ったのはなぜか。
”軍神”の内面に迫って、人間像を浮き彫りにした問題作。

























































