こんにちは
朱堂です
今回は、京都編
「瑞泉寺(豊臣秀次墓所)」です
(住所:京都府中京区木屋町三条下ル石屋町114-1)
「豊臣秀次」は、秀吉の姉・とも(日秀)の子で、
ご存知のとおり秀吉の養子になって関白を継ぐも、
秀吉に子供ができたために謀反の罪を着せられて
妻子ともども三条河原で処刑された人です
そんな秀次さんと、その妻、子供、殉死した家臣50人のお墓があるお寺です
彼らの遺体は処刑された後、このあたりに穴を掘ってまとめて埋められ、
「畜生塚」と呼ばれて荒れ放題だったそうです
ですが、江戸時代に入って河川工事をした角倉了以が、
弟が秀次に仕えていた縁から改葬してお寺を建て、現在に至ります
この秀次処刑は、朝鮮出兵と並んで、
晩年にして最大の秀吉の失政と呼ばれているからなぁ…
ちょっと悲しい気分で参拝せずにはいられませんでした
コレが秀次のお墓です
この両脇に妻子と家臣のお墓がズラッと並んでいます
お墓の一覧
秀次の側室多すぎるからなぁ…
全員名前が載ってるなんてめったにないわけでして
ここまで詳しく載っているもの初めて見たよ
嬉しいです、感謝です、ありがとうございます
でも、秀次の側室で忘れちゃいけないのが…
8番の彼女
羽州山形の大大名・最上義光の娘である「お伊万の方」。
「駒姫」っていう名前のほうが有名ですね
政宗様の従妹にあたります
秀次が義光のもとに来た時、駒姫が秀次の接待をした結果、
秀次がその美しさに惚れてしまい、側室として所望されます。
義光は断り続けるも、最後には折れてしまい、
15歳になったら側室として上京させる約束をしてしまいました。
そして、15歳になり、上京。
しかし、その途中で秀次の謀反が発覚し、
駒姫は実質的には側室になっていないのにもかかわらず捕らえられ、
他の妻子たちと一緒に処刑されました
実質的な側室になっていない状況や父・義光の嘆願もあり、
出家させることを条件に許すよう、秀吉も伝えたそうですが、
間に合わなかったとか。
その最期は、大名の娘に恥じぬ姿だったそうです。
この影響で、義光本人や従兄の政宗様にも連座の可能性が出ますが、
(政宗様は秀次と親しかったからとも)
なんとかセーフ
ですが、「家族LOVEな鮭様(笑)」こと義光やその妻には相当な打撃となり、
義光の妻は駒姫処刑直後に突如死去
(後を追って自害したとも)
義光も自分の領内に駒姫を弔う寺を建てるなどしました。
…こちらも、戦国有数の悲劇なのです
写真右から2番目のお墓が、駒姫のお墓です
やはり、話に聞くだけではなかなかピンとこないことであっても、
実際のものを見ると、その惨劇がひしひしと伝わってきます
以上、朱堂でした




