基本ジャケットのポケットに手を突っ込んで歩くのが常だから、最近暖かくなってきてポケットのない服を着ると手をどこに置いたらいいかわからなくなる。足に合わせて前後に揺らすとウォーキングしているおばちゃんのようだし、うしろに組むと視察してるみたいだし、ズボンのポケットに入れたら偉そうだし、あまりにプラプラさせているのもおかしいし、かといって荷物を持って歩くのも好きじゃない。

同じように困るものに、目のやり場というものもある。たとえば、電車に座っていて、スマホの充電が切れていて、読む本も持っていないとき。ふと前をみると、同じように何もしていない人と目が合う。やたら目を合わせつづけるのも気味が悪いので、慌てて車内広告を真剣に読み耽る人のフリをする。もしくは、その人越しの窓に映る車窓にピントをズラす。

定食屋で注文したごはんをひとり待っているとき、スマホがない時代、この時間を人々はどう過ごしていたんだろうと考える。ポカンと空いた時間、手持ち無沙汰だ。昔ながらの定食屋、あたりを見渡すと、今は読まれる機会が少なくなってしまったであろうマンガ本の棚が寂しそうに立っている。昔この店を訪れた客も、手持ち無沙汰もなんだしマンガでも読むかという思考に至ったのだろうか。

昔、オードリー若林さんが何かの番組で言っていた。楽屋では誰にも話しかけられたくないから、大して興味もないドリンクのラベルを読み込んでいる、と。ドリンクのラベルを読み込んでいる間、人は「ドリンクのラベルを読み込んでいる人」になれる。何かをしている人になるってのは、とても重要なことだ。私にとっての、ピースサインや、車窓を眺めること、カツ丼を待ちながらスマホをいじることと同じく、体を楽にしてくれる。

手持ち無沙汰なことを日本語では、「所在なさげ」というけれど、文字どおり何もしていない人には所在がない、居場所がないんじゃないだろうか。

夜に手ぶらで街を散歩していて、パトロール中の警察の人とすれ違うとき、何もしてないのになんだかバツが悪い。慌てて、スマホを取り出して用事がある人のフリをするのも癪なので、私は純然な散歩をしているのだ、何もしていなくて何が悪い、という顔をしながらすれ違う。これは私なりの抵抗なんだけど、友達に話してもあまり理解されない。所在ないものに、所在を作りたい。

中学のころ、授業で学んだ面接のときの手の置き場所。あれも、プラプラしている手を閉じ込める牢獄のように思えてくる。そもそも、男女によって手の場所が変わるなんておかしい。子供のころの体育座りで膝をぎゅっと抱き締めさせられたことも、なんだか無性に腹が立ってきた。手、手、手の位置。碇ゲンドウが司令室でずっと手を組んでいるのも、することがなくて、手の位置に困ってるからなんじゃないだろうか。