今の文化や一般的価値観が続く限りは、争う事も諍いも無く成る事は無いのかもしれません。
どうしても、無い事実や足りないという事を探し続けフォーカスし続ける事に存在を依存してしまう。
在るという事実や足りるという事を、人はどうしても軽視して、その存在の価値を忘れ去ってしまう、、、、
それが存在の根源的な発生源でもあるので、動物的な欲求としては、ある意味正しい事でしかないのでしょう。
そして、存在が感じるその不足感を追い求める事こそが、不幸の根源で在り発生源なのも事実でしかありません。
とはいえ、この文化や一般的な価値観が変わらないと、そんな想いや妄執も無くなりはしないのかもしれません。
話は変わりますが、、、、(^_^;)
なぜ人は誰かという存在を気にかけてしまうものなのでしょうか???
人は真理を探そうとすると、一人で居る必要があります・・・・
というよりは、自分の欲を真に理解する為に、一緒に居る誰かの欲をも一度排除する必要があります・・・・
それをいかに表現する事が出来るのか??をずっと考えていたのですが(^_^;)
その最たる理由は棘の存在とそれが生み出す感情を正確に理解する為??と言えば良いのでしょうか....
人は欲という根から棘を産出し続けていて、その棘により他人だけでなく自らをも不幸にしてしまうものです。
殆んどの人が起こる事象の表面を眺めて、その意味の大半を判断してしまい、それに一喜一憂してしまいます。
別にそれを良い悪いと言うつもりはなくて、それはその人の現状が生み出す判断なので、それは全て正しいです。。。
とはいえ、起こる事象にも多重構造的に意味合いは重ね合わせが起きていて、見ようとすれば表面上の
意味合いよりも重要な、事象や繋がり等と云った因果的効果も含まれていて、それにも大きな意味があるものです。
...まだ書きます