the egg....

 

ある一つの意識を育てる為に、存在するという考え方

 

それはどの観点で見るかという問題は大きくあるものの、概ね正しい概念・・・・

 

 

頭で考える事や、調べて学んだ知識であるとかって事を否定するものでは無いですが、

 

思考や知識とはあくまでもそれでしかないと言えば良いんでしょうか???

 

 

簡潔に表現するならば、知識や思考では潜在的な知覚には至らないというだけの事。。。

 

 

潜在的な知覚を変異させる事が出来るのは、経験という実感のみであるという事実...

 

 

 

そして、実感するという事を積み上げる為にこそ、あらゆる生命は存在しているという事です。

 

 

他に的確な表現が無いので、宗教的な表現を使わせてもらいますが・・・

 

 

【輪廻転生】という概念は、その為にあると言えるのかもしれません

 

 

簡単で馬鹿らしい表現をするならば、悟りを追求したい人は、

 

いつの日か仏陀の人生を輪廻転生で経験する事になる...という事

 

 

人間個々人の意識とは星から生れた無数の枝状の知覚細胞の先端とでも言えば良いのでしょうか??

 

 

そして、それぞれの実感を以て、その幹たる知覚を育成させているに過ぎないという事・・・・

 

 

個々人の欲は、隔絶されているという認識の上に成り立つものです、、、

 

 

この世に存在した人間すべてが自分だとは、本来は認識が及ばないのが普通だし

 

そういう事を感じ難いように、このシステム自体が設計されているのだから仕方ない。

 

 

だからこそ、人は個々人の欲を以て、殺し合い奪い合い、何かを誇り、何かに打ちのめされる

 

そんな事を続けて、自分を痛めつけ、慈しんだりしながら、その意識を成長させるんでしょうね・・・

 

 

こんな事は、全ての存在が、いつの日にか自ら実感できるシステムになっているので、

 

わざわざ書く必要など、全くないのかもしれません・・・・・既に多くの先人の遺物が存在するので

 

 

 

だから・・・自分が誰に対して、何に対して、どのような事をしようとも

 

それは、単純に自分に対しての善意で在り悪意で在るというだけの事です。

 

 

 

善行も悪行も、自分に対する行動でしかないからこそ、好きに行動すれば良いのです。

 

個々人の生命と存在というのは、その知覚を育成するために必要な養分でしかないのだから・・・

 

 

すごく叩かれそうな内容ですが、実際はそんな程度の意味しかないですよ、その身体に根差す時間には

 

 

何度も何度も、身体を乗り換えて育み続ける知覚の行き着く先にこそ、存在の大いなる意味があるんです。

 

 

 

おそらく人間の存在の意味は、そういう事なんだろうと思います・・・・