何故なのか??何故僕は人と云う時間を求めここに来たんだろうか??

 

理由などあってないようなものなのかもしれないけど、個別である意味はひどく理解できる。

 

 

自己と他者の境界線が恐ろしい程解りやすいこの世界、この人間という存在において解る事は確かにある。

 

でも本当はそんな境界などは存在せず、物質的観念の中に於いては自己と他者は同一性の定義でしかない。

 

今感じているその境界線は一過性の今という瞬間に於ける自己であり他者でしかない・・・・・

 

 

この世界の中に在る全てのモノは自己であり他者である事を理解する為にこそ存在する。。。。

 

 

願う事、求める事、望む事、、、、、それを心から行うのならその全ては手に入る世界である。

 

だからこそ、答えは恐ろしくシンプルでしかない。何も願わず求めず望まない事。

 

 

願い求め望めば、それは手に入る代わりに、その為にカルマを背負う事となる。

 

カルマとは代償。それを求めたが為に壊した何かを償う業を背負う事でしかない。

 

 

だから、解脱する悟るという言葉に示される意味はそのカルマを受け入れつつ何をも求めない事。

 

願わず、求めず、望まずに、自己が他者の為に出来る何かに身を委ね、その流れを生きる事でしかない。

 

 

それを行いカルマの戒めを離れた瞬間に、人はその輪廻転生という業から解放される時が来る。

 

 

気付けば簡単な事でしかないこのことを、自我や我欲というモノが遮り阻害し、その存在を苦しめる。

 

結果、人は物理的な肉体という咎を持つが為に、その肉体という物質の欲に翻弄されてしまう。

 

 

この怨嗟の先に、その欲望の果てに、在るべき自己と本来の自我を見出す事でしか答えは出ない。

 

 

 

因果だと思います。。。。本当に過酷な業を背負いつつ輪廻というモノから解脱する為の行いでしかない。

 

その苦しみとその悲しみの果てに、本来の自分という存在に還る事が、どれほどの喜びなのかと・・・・

 

 

 

僕がなぜ今も生きているのか???

 

その意味が、いつか解る日が来るであろうことを願いつつ、この事を伝えるべき誰かがいるのかもと。。。。

 

 

そんな事を想いながら、この記事を書かないといけない気がした、そんな記事です。

 

 

 

意味が解らなさすぎると思いますので、スルーしていただければと思います。。。。。、