人間は全ての瞬間でその存在は何かしらの違いがある・・・人間以外もそうですが。
身体は常に変化を繰り返しているので、意識的に認識は出来なくても、
全ての瞬間に於いて、物質的な観点で見れば、その存在は別の存在と言える。
意識的な観点で見ても、あらゆる経験や思考から、何かを学び変化を繰り返す。
生まれてから死ぬまで、意識・思考・経験・記憶が自分という存在を認識させるけど、
その存在は、物理・非物理に関わらず、変化変遷を繰り返し、その存在を上書いていく。
今この瞬間の自分や世界の一瞬後には、また違った自分と世界が存在して、それを連綿と繰り返す。
そうやって変化変遷を繰り返し、その事実と経緯に従って、世界は在るべき姿を変容させる。
それは、良いでも悪いでもなく、ただ在るがままに普遍的な法則に則って行われていくけど・・・・
その事実が何にとって都合が良くて、何にとって都合が悪いのかなど、その法則は考えない。
生きている事を認識する全ての存在に出来る事は、その瞬間その場所に於いて、自分にとって
必要なモノ、自分を存続させるために出来る事を考え理解し粛々と、ただそれを行う事のみでしかない。
過去や未来なんて概念すらも、実はまやかしの中に存在する虚像なのかもしれないけど、
人である以上は、その出来事に時系列や関連性を強制的に認識させられてしまうから。。。
だけど、その在るか無いのか解りもしない因果関係に囚われる無意味さではなくて、
出来る事ならば、それぞれの瞬間とそれぞれの状態に敬意と感謝を感じる存在でありたい。
自分という存在を今ここに存続させている、全ての事象や存在に、それを行う自分に、
別れと出会いを繰り返しながら、全ての瞬間を生きる時に、その存在が何になるのか??
そんな事が頭をよぎって、全ての思考が止まる静寂観を感じながら、頭の中にある
雑音のような欲や思考が、薄れていく感覚が、すごく不思議でなんだか心地よいです。
言葉で表現しきれるものではなく、全てがどんどん繋がり膨らみ続ける、認識の膨張は
瞬間瞬間毎に、僕を更新し今まで見えなかった何かを見せて、何処かへ連れていくけど・・・
逝き付く先まで逝き付いたその先で、かつての自分と出会う事が出来れば、さぞ楽しい
話が出来るんじゃないかと、そんな事を感じて少し寂しい気持ちになった記憶です。
言葉とは不自由で、この全ての感覚を表すことに莫大な時間と文字数を費やす必要を感じる。
認識が膨らめば、乗算的な言葉の膨張が起こる予感が、また何かを示しているのかもしれないと、
そんな事を感じながら、自分に何が出来るのだろうかと。。。。