悲しみの果てに在るのが悟り・・・・

それは自分一個体に起こる出来事に起因する悲しみではなくて

この世界にある真理というシステムに対する悲しみの果て


食べ物、飲み物、酸素といった物質に依存する事で自らの身体を維持する事

生きるという仕組みから脱却する事を自死以外に自分の意志で決めれない事

このシステムを原罪という十字架を背負いながら実行するという絶対ルール


全ての存在は結果的に何かや誰かの犠牲の上にしか、自分という存在を維持しえないのである。

自然的な事象であれ、人為的な事象であれ、物質世界の存在定理は悲しみの温床でしかない。


人という概念定理において人は地球の中で一番偉いと勘違いしているけど、

実は偉くも無ければ尊い訳でもない。

人も動物も植物も土も塵芥も、どれも平等な存在で、どれかが尊いなら、この全ても同じく尊いのが真理。



その等しく尊い何かの生を奪う事で存在する悲しみこそが、原罪というシステムに起因する悲しみ。

この避け得ない悲しみを感じ、苦しみ、悩んで、その結果感謝という事を心底実感する。。。。


そして、自分という生命を生かし育んでくれるシステムと存在の全てに

痛恨の想いと多大な感謝を持って向き合った時に、自我という概念の

烏滸がましさを痛感し、自己の存在の担保に対する等価的対価を考える事。


それが悟りという概念の入り口なんだと、思います。



脱却する事を許されないままに、他の存在から搾取する事を強要される。

そして、それを如何に悲しみ苦しみ嘆いても、等価的対価を差し出せない事実


こんな悲しみを感じさせてくれる事が、人間という存在に与えられた叡智だから


悲しくて苦しいシステムなのに、そこには全ての存在の犠牲と優しさが

あふれてるという、真理という名の不条理に紐づいて存在する現実だからこそ、

仏陀は輪廻転生を終わらせる事でしか、救いは存在しないと思ったのだろう



故に人間という存在に与えられた、思考というエネルギーに感謝と愛を載せて、

この世界に伝播させて出来る限り多くの存在に、伝えようとしたんだろう。



それが、本当の優しさであり、思い遣りであり、そのエネルギーこそが愛だから


そのプロセスとその時の心情を想えば、苦しみの果てというその意味が

心底わかって、どういう想いでその場に居たのかが、悲しくも愛おしい


言葉だけで語りつくせる事ですらないとは思いますが、

そんな事を想い、それを悲しみ感謝したという記録です。。。。


この世界に溢れている、言葉と主張のない愛に、心から多大なる感謝を、、、、