生きると云う事と、存在すると云う事の意味は違う。


存在はもともとあるものであって、生まれたり死んだりはしない。

生きるとは物質的な存在であって、変遷し姿形を変えていく。


人間でいえば、産まれ成長して死んでいくという事だけど、

その過程の中には自分の細胞を作り出し、死んだ細胞を排出して、

その吸収と排泄された物質はまた変遷して別の物となり生きている。


結果的には、存在に生も死も無いように、物質にも生も死もないのである。

姿形、役割を変えて存在するという現実だけが存在し、その営みは止まらない


人間一個人、動物一個体、植物一個体、といった単位で見るから生きてる

死んでしまったという概念があるだけで、事実はそんなに些細な事ですらない。


存在は担保されたまま、物質は朽ち果てて死という言葉を与えられる世界にあって

観念だけではなく、実際に触れて感じる事が出来るという、その幸福を想えども


恐らくは、それを必要としているのかどうかも既に解らないのが今の場所

悟りを開くとは達観する事ではなく、物質的な幸福の意味を理解する事により、

物質的世界に在る常識が色褪せるという、強制的な脱却という意味に近い。



意味はある、一瞬という瞬間にのみその喜びは存在して、人を満ちたりた気分にするという意味が

だけど、永劫その喜びは続く事は無く、次にある苦が人の心を苛む事になる。



こんな変遷と変化を義務付けられた物質世界には、

その変遷と変化というシステムと意味にしか真理は無い。



だからこそ、ただその目の前にある景色や想いや優しさに、心を打たれていたい。

そして、生きるも死ぬもさしたる意味が無い世界にある、

それでも健気に想い行動するその存在全てを愛して、朽ちる時を待っていたい。



そんな事を、感じて見る葉桜が、綺麗だと思った記録です。。。。