パウロは言いました。

 

ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。

しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます

 そうです。これからも喜ぶでしょう。

(新約聖書・ピリピ人への手紙1章17~18節)

 

 

彼は、キリストを信じるという人たちが様々な信仰をもって宣べ伝えることに対して、キリストにあって「善し」としたのでした。つまり「喜ぶ」ことをもって、自分に関係するところには眼を自身”閉じたのです。

 

 

ボクたちは、このパウロがしたようにしているでしょうか?

 

「この人は(実際に)ボクに対して悪いことをした、だから許せない!」

という感情を”持て余したまま”、生活していないでしょうか?

 

 

 

 

この点からもボクは、やはり『教会に通うこと』には、心から賛成します。

 

 

なぜでしょうか?

 

それは、キリストの教会には、聖書が言っている通りに神さまご自身の聖霊様が満ち溢れておられるからです!

 

 

人間の心は一切、この方からは逃れられないのです!