「後から考えないと、その時には解らない」ということがあります。
今日がまさにそうでした。
わたしの神、主よ、顧みてわたしにこたえ
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
この『今日のみことば』が、何故そうなのかが解りませんでした。
しかし考えてみると、昨日は一日何も出来ず仕舞い。せっかくの休みが台無しの一日でした。
そして今日は何故か、「英語で書かれた絵画の本を施設に持って行くように」と心に思いが来ていたのです。
ボクは「神さまが何かされるかもしれない」と感じて、それを持って行くことにしました。
そうして、それを施設に到着してすぐに一人の男性の利用者の方に手渡しました。
しかし、その方はそれに一瞥をくれるだけで手にとって読もうとは決してされませんでした。
そこで私は、それを絵画の好きな別の一人の女性の利用者さんに手渡すべく、その男性の所に彼女を連れて行って「貸して下さい」とお願いしたのです。
受け取ったその女性は、一心にその本に見入っていました。
そうしてなぜか、英語の解説の所もじーっと見ているようでした。
夕方になってから、その本を男性の元に返し、しかし彼はその後も見ようとはされませんでした。
夜になって。
静かな時間になってから、その男性に訊くと「頭がしんどい」と言われたんでした。
神さまがその時に導かれたように思い、ボク自身で読み始めました。
とっても詩的で素敵な英文でした。
日本語の訳文ですが、それ自体が自立して直接語り掛けてくる愛情を感じました。
「神さまは、何かを始めようとしておられる」。その時にそう強く思いました。