信仰の先輩の方々の書かれた書物に触れていきますと、日本にプロテスタント信仰が解禁になった頃は(いわゆる明治維新後ですね)、海外から「待ってました」と言わんばかりに沢山の宣教師の方々が日本にやって来られました。

 

しかし、内村鑑三氏のように当時「自分たちの信仰の目線で、神さまを素直に見上げまた礼拝していきたい」という切なる思いは、なかなか実行するには難しい時代でした。

 

語学の研鑽を積んだ特別な人々でしかそのような知識を得て成長するということはできなかったのです。

 

 

 

今現在、

 

日本語に翻訳された沢山の書物によって、海外からの様々な書が翻訳されて読むことができます。

そして今や、それよりもさらに進んで、同時通訳という機能も生まれました。

 

しかしそれを正しく利用するには、別にそれらを判断し見分けていく能力が必要になってきています。

 

 

先の先人たちも、「ああ、この翻訳は日本語としてはまだまだ正しくない」との判断を以て、翻訳前の原語での書物を読むことにつながった、と説明されています。

 

 

 

 

今を生きる私たちはどうでしょうか?

 

聖書はこう言っています。

 

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。

神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(新約聖書・コリント人への手紙第二 1章19~20節)

 

すなわち、正しい神の子の姿は、聖書のみことばを受けて生まれた事、そしてその導きに従って成長してくこと、そしてことごとく導き成長させてくださる方に栄光を帰することにかかっているのでした!

 

この意味で、歴史上にもハッキリと現れられたイエス・キリストは、その道の唯一の先駆者として十字架の上で先の道を完成させられたのでした。

 

そうして、今の時代。

求める者に、『聖霊なる神の霊の到来』を、神さま御自身の内にご用意しておられるのだという事なのです!

 

アーメン!