夫婦二人での食卓において、私はこう祈りました;
「主の御名こそがあがめられるように、主の道を歩もうと望む私たちを導いて下さい」。
私たちは、心に色々なことを思い浮かべ、また望み、そして求めます。
しかし、聖書は「主の御心こそがなる」と言っています。
タイトルにある言葉は、その聖書からの抜粋ですが、よく読んでみるとこういう意味のようです。
律法、
すなわち神さまが地上での訓練としてイスラエルの人々に向けて書かれた書物は、
今、その専門の学者たちによって解き明かされて人々の前に語られた。
人々は、それを理解したが、そのことばに表れる”かつて堕落したイスラエルの先人たち”が今の自分たちと重なり、
みじめさに泣いてしまっていた。
しかし、学者たちは「そうではない。今日は、そのみじめな自分たちの生活を終わらせるために神さまが開いて下さっ
た日なのだから、喜ぶべきであって、悲しむべきではない。」と語り掛けた。
さらにイスラエルの総督は続けてこう言った:「今日は、そんなお祝いの日だから、大いに祝おうではないか!
神さまは、私たちに『その訓練は立派に成し遂げられる』と語って下さているのだ!」。
すなわち、今生きている私たちは、しっかりと今、立つべき所にしっかりと立って、今祝うべきを大いに祝うことなのでした!
アーメン。
(”世界聖餐式”を前にして書きました。)