「ありのまま生きる」と言っても、テキトーに生きる、という意味ではありません。
以前に神さまが、
「私が注ぎの供え物となっても、(あなたがたのことを)喜びます。私たちと一緒に喜んでください。」
というみことばをもって、私自身の時の終わりのことを教えてくださったこと。
そのようにして、
私は一度倒れてから再び起き上がって、今度は新しい歩みを始める、ということ;
この新しい歩みについて語ろうとしているのです。
聖書のみことばというものは、
霊とたましいの間を刺し通して、人の思いや考えを判別することの出来るものです。
読めば読むほどに、みことばに切り刻まれて、自分自身の本当の姿が人々の前に露わにされていきます。
滅びゆく自分自身の姿に打ちひしがれる自分。
しかし、その一方では、新しい品性が生まれ、新たにされ、喜びに待たされていくのです。
ボクの場合は、これまで教会生活を守り、毎日聖書のみことばを通して神さまの御心を探り求めて生きて来たのですが、その先に神さまがおられて神さまが平安を教えてくださったのは、必ずしもその祈りの場に於いてだけではありませんでした。
人々との交わりの場においても、その体験を得させてくださったのでした。
神さまは、「イエスさまが神さまにも、そして人にも愛された」と聖書に書いておられるのです。