テーマ自体が、"「考える」について考える"という
入れ子の姿になっている。
「意識」とは常に、何か対象物に対して
意識をするという構造になっている。
対象物なしの意識という現象は実際には存在しない。
けれど、「意識」について考えているときは、「意識」が向けられている
何物かまでは考慮のうちに入れてはいないのだが。
"「考える」について考える"ときにも、「何について考えているのか」
まで考慮に入れると、脳味噌の手に余ってしまう複雑さになる。
それでもこれだけは言える。
物を考える能力を磨くには、その対象となる
具体的に形が与えられた物が(何であれ)必要だ。
何でこんな事を思ったかというと、大津市のいじめ自殺事件が
正に、「何かについて考える」ときの基点となっているからだ。
もしかすれば、福島原発の事故の時よりも、「基点」としての
威力は大きいかも知れない。
原子力発電所の見学に行った人よりも、小中高校生の時期に
いじめを見たりその当事者だったりした人の方が遥かに多いから。
まあ本当は、思考力を鍛えるのに数学を学ぶのが最高だ、
と言いたい気持ちもなくはないんだけど、だいたい俺が
自分に折り合いが付く域まで数学で届かなかったんでねぇ・・・。
入れ子の姿になっている。
「意識」とは常に、何か対象物に対して
意識をするという構造になっている。
対象物なしの意識という現象は実際には存在しない。
けれど、「意識」について考えているときは、「意識」が向けられている
何物かまでは考慮のうちに入れてはいないのだが。
"「考える」について考える"ときにも、「何について考えているのか」
まで考慮に入れると、脳味噌の手に余ってしまう複雑さになる。
それでもこれだけは言える。
物を考える能力を磨くには、その対象となる
具体的に形が与えられた物が(何であれ)必要だ。
何でこんな事を思ったかというと、大津市のいじめ自殺事件が
正に、「何かについて考える」ときの基点となっているからだ。
もしかすれば、福島原発の事故の時よりも、「基点」としての
威力は大きいかも知れない。
原子力発電所の見学に行った人よりも、小中高校生の時期に
いじめを見たりその当事者だったりした人の方が遥かに多いから。
まあ本当は、思考力を鍛えるのに数学を学ぶのが最高だ、
と言いたい気持ちもなくはないんだけど、だいたい俺が
自分に折り合いが付く域まで数学で届かなかったんでねぇ・・・。