…咄嗟に筋肉少女帯の歌詞が出てこない。
まったくこのダメ人間が!
昨日あんな事を書いたのを少々引きずってみたり。
俺は「自分の意思」ってのを少しだけ疑っている。
世の東西、古今を見渡して、「自我がない」
(或いは明確化されない)文化ってのは案外多かったそうで。
日本の文化はかなり「それ」で、”俺が俺が”みたいなのが
隆盛だったのは戦国時代位で、ファーストネームなんかより
ファミリーネームがとにかく大事だった期間の方が長い。
どういう事かというと、「自分がこれがしたい!」という
「自分が世界の中心」な外部認識が希薄で
「自分を取り巻く状況がこうだからああする」という
「世界に応答して動く自分」な外部認識で生きる。
何かアルコールが回ってきてネタを上手に転がせない。
世界柔道の結果なんかを見てて思うんだけど
近代西洋人の行動原理はこれだろう。
「外界が不都合なら都合が良くなるように改変してしまえ」
「ルールが不都合なら都合が良くなるように改変してしまえ」
でも、(特に)日本人は、そういう拘束条件ってヤツを
弄るという発想を取りたがらないというか、そもそも
拘束条件が変更出来るかもしれない、とは気付かない?
オリンピックで日本人が強かった種目がルール変更されたり
種目自体が消滅したりするのを見るに付け、唸ってしまう。
まったくこのダメ人間が!
昨日あんな事を書いたのを少々引きずってみたり。
俺は「自分の意思」ってのを少しだけ疑っている。
世の東西、古今を見渡して、「自我がない」
(或いは明確化されない)文化ってのは案外多かったそうで。
日本の文化はかなり「それ」で、”俺が俺が”みたいなのが
隆盛だったのは戦国時代位で、ファーストネームなんかより
ファミリーネームがとにかく大事だった期間の方が長い。
どういう事かというと、「自分がこれがしたい!」という
「自分が世界の中心」な外部認識が希薄で
「自分を取り巻く状況がこうだからああする」という
「世界に応答して動く自分」な外部認識で生きる。
何かアルコールが回ってきてネタを上手に転がせない。
世界柔道の結果なんかを見てて思うんだけど
近代西洋人の行動原理はこれだろう。
「外界が不都合なら都合が良くなるように改変してしまえ」
「ルールが不都合なら都合が良くなるように改変してしまえ」
でも、(特に)日本人は、そういう拘束条件ってヤツを
弄るという発想を取りたがらないというか、そもそも
拘束条件が変更出来るかもしれない、とは気付かない?
オリンピックで日本人が強かった種目がルール変更されたり
種目自体が消滅したりするのを見るに付け、唸ってしまう。