今や、シャツの胸ポケットに折りたたんで仕舞える電子デバイスで
テレビ電話が可能となり、Eメールなどの非同期型通信など、30年前の
SF特撮番組なんかには想像すらされない程の個人所有通信手段が発展した現在。
なのに、ですよ、今なお、「更に速く人に会う為の手段」の発展の欲求が
当然とされ疑われる事がない(一部引篭もりとかの属性の人はともかく)。
薄ぼんやりと物を考えてると、ちょっとした驚きを感じる。
「携帯電話とメールじゃダメなん?」と。
でも、直接人と会うのはコミュニケーション帯域で最大のバンド幅を持つんだ。
文章や声明の様な類と違う、文法的な構造を与えられない種類の表現形式は
メディア上にコードするのは難しいというか、部分的な物になる。
相対する者同士が表現を応酬しあうサイクルの中で編み込まれる「成果物」は
時間と場所を共有して行うのが一番「繁茂した姿」になるしね。


今週売りの週刊東洋経済の北川達夫の連載、
『わかりあえない時代の「対話力」入門』
思わず吹き出してしまったので、一部抜き出してみたり。
 
  最近では、原発事故の直後、注水を敢行した消防隊の隊長らの記者会見に
 おいて、強烈な違和感を抱いた。当時は「最悪の事態にまでは至っていない」
 という認識が大勢の状況であったのにもかかわらず、隊長らは全身で
 「最悪の恐怖」を表現していたからである。


これですよ。
テレビの(更には編集された)本人の記者会見映像ですら
ここまで情報量を持つ。
もっと言うと、枝野官房長官の定例発表の狸ぶりは大した「役者」だな、と。
福島訪問の時の現地に15分だけ、それも完全装備の防護服姿で、という
映像で本当の事を正直に表現してしまったのは頂けないが。