今日で大学の試験も終えて、レポートの提出も終わり、夏休みに突入した。春学期を終えて、振り返ってみると、あまり何もなかったというのが感想だ。生活のサイクルは大学、バイト、家がほとんどである。大学の授業で面白かったり意味があると思えたのは考える限りそんなにない。よかったなと思えたのは、プレゼンテーションをやる科目と実習科目と統計の科目だけだ。プレゼンテーションは他の人の発表を見れたのが参考になった。実習科目は、少ないながらコミュニケーションをとれたので、楽しかった。統計科目はついて行くのがやっとで、なかなか能動的に講義をうけていたと思う。けど、それだけだった。いやそれだけなのか。

明日からは、夏休みだ。1ヶ月半ほどの自由な時間、長いようで短い1ヶ月半。やりたいことはないが、何かをやらないといけないという焦りはある。けど、焦っても、なんにもならなかった。それはやはり、やりたいことがないからだ。いや、少しはある。それは、誰かとコミュニケーションや共同を取ることと、そのコミュニケーションを通しながら、何かをやり切ることだ。それが、自分に充実感と自信を与えてくれる気がする。その『気がする』をこの半年ほどで、学んだと思う。

とはいえやることがない。統計の初老の教授は本を読めと言っていた。それを聞くわけではないが、昨日の帰りに本をかってきた。本は4冊、3000也。

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 大学での学びは勉強とは呼ばず、学習と呼ぶそうだ。それは、高校までの用意されたものを強いられるものとは違い、大学での学びは、自ら学んで行くものだからである。
 

 けれど、実際大学での学習は糞面白くない。特に一般教養、全額共通科目とよばれる科目である。今日も、単位を取る必要から受けている西洋の歴史の講義を受けているが、北欧の絶対王政だとか、ヴァイキングだとか、知っていたところでなんの役にも立たないし、興味もないので適当にうけている。僕以外の学生にしたって、歴史に興味がある人なんて1割もいないだろう。大学側は学部の専門科目以外での広い知識を身につけることなんて言っているが、実際は知識をつけたくて、受けている学生なんて、ほとんどいないと思う。
 専門科目にしたって、僕の場合心理学だが、授業(講義)間でかぶっている内容がおおすぎる。心理学にも基礎と応用があるが、どの授業でも基礎から入るので、ロジャーズのカウンセラーの3条件なんて耳にタコだ。
 

 この前の心理学における統計の使い方を学ぶ授業でのこと、同じグループの女の子が、統計解析の結果をwordに移す作業の面倒さに、「こんなことをしてなんのやくにたつのー!」といっていた。おいおい、そりゃ心理学の論文を書くのに必要だからだろ、なんてことではない。そもそも心理学なんてなんで勉強しないとダメなのかってかことだ。この叫びに僕はあんまり疑問を感じない。僕は大学で学ぶ学問として、心理学を選んだが、所詮は学部のなかで一番興味を持てそうだから選んだにすぎない。それにしたって本当にやりたいことかわからない。
 

 この前の英語の授業でのこと、その日はアメリカの留学生と英語で話をした。留学生は僕らに英語をどうやって生かしたいかを聞いた。その質問に対してアホな女子学生が「強制されてるから、やっているだけだ」といった。留学生の方はなぜ留学をしたかったかについて、「他の国の人と話したり、外国の食べ物を食べたり、そういう経験を積みたいから」と言っていた。
 アホな女子学生の意見と留学生の意見に僕の考えがどちらが近いかなら、間違いなくアホな女子学生だろう。留学生はやりたいことがはっきりしていて、その具体的な手段が留学なのだ。それに対して僕らにはやりたいことがない。
 会ってみて感じたことは話し方や雰囲気に自信があるということ。留学生達は、それぞれ西欧系のアメリカ人ではなく、中国系、韓国系、日系のアメリカ人だった。アメリカにはいろんな人種のひとがいて、言語は同じでも文化が違っていろいろと困難があるそうだ。そういった困難があっても、これだけ自信を感じさせるのは、それについて少しでも対処して乗り越えてきたからだろう。そして自信があるからやりたいことも生まれる。
 それに対して僕らはどうだろう。日本にはそういった文化差や困難はない。けれどかわりに、生まれてから死ぬまで、いろいろとやりたくもない事を強制させられるのだ。それは高校や大学の勉強だけではない。

 それがわかっていてなぜ僕は変えようとしないのか?。それはやりたいことがないからだ。やりたいこともないから、それを達成することで得られる自信もつかない。
 
 僕のやりたいと思えることや、自分に自信を取り戻してくれる、きっかけは大学にあるんだろうか。

 ここ最近、よく生きる意味について考えることが多い。といっても人生には特別な価値があるんだ!とかそういった意味ではなく、生きる方向性や生き方といったことについてである。将来どうやって生きていこうかと考えたときに思いつくライフスタイルは仕事を生きがいにするような生き方と仕事は暮らしていくための手段であり、読書をしたり、ゲームをしたりなどの趣味にいきがいを求める生き方の2つが自分には考えつく。

 自分にとって前者の生き方とはなんだろうと考えてみると、今大学で専攻している心理学の専門職につくことである。しかし、その専門職とは人と積極的にかかわっていく仕事であり、一種の人嫌いの傾向が少しあるし、ここまでかというほど自分に自信がないので、考えるたびにはたして自分にあった職業なのかと自問自答してしまうのである。それでも一方ほかに自分がなりたい職業は全くおもいつかないのである。

 後者の生き方とは就職する道である。しかし前者とは違って仕事に対しては漠然と就職としか思いつかないのであり、そうなら大学とはなんなのだろうと考えてしまう。ある学問について深くしるために大学院をめざし、研究者となるなら大学での学習の目的や意味についてもよくわかるが、実際多くの学生は大学院にはいかず就職してしまう。

 あまり大学の意味について教えてくれる人はすくないが、以前所属していた部活の顧問教授がそれに近いことがきけた。それは簡単にいえば、自分に自信をつけるような経験や自分を成長させるような経験を自己実現を通してみにつけるということである。この話の場合は何か部活動であらたに目標をもってやるのはどうかという提案と絡めて出た話ではあるが、大学生活全体にも関係した話し方でもあった。それは大学で専門的なことを勉強し、卒論を書き、友達を作り、その友達と何か目的意識をもって行動したりさまざまである。その話を聞いて、ああ確かにそうなのかなぁと思う部分があり実際に大学で学習していても、もちろん興味深い分野もあるものの、大学受験に必要な世界史に対してこんなもの何の意味もない!とつぶやく高校生のように、こんな抽象的なもののためになぜこんなことを学習しなければならないのか!と思ってしまうのである。

 どちらの生き方を目指すにしても、具体的な選択をせまられるまでは少なくともあと半年から1年以上猶予があるので、もう少しゆるゆる大学の学習に着いていって、かつ就職にも役立つ?TOEICの勉強でもしながらゆらゆらと揺れ続けようと思う。