世の中で起きている事象も、人の感情も、すべては相対的なものである。
絶対的な怒り、絶対的な喜び、絶対的な悲しみ、など存在しない。
もし、絶対的なものがあるとすれば、神との関係においてあり得る可能性があるかもしれない。(神が存在するとすれば)
自信家は、根拠なく自信があるわけではなく、根拠があるから自信を持つのだ。
その根拠が、他人にとって無価値であったとしても。
逆にいえば、自信のない人は、自信を失った原因、根拠があるということになる。
他人にとっては、自信を失わせる根拠にならないものであっても、その人にとっては十分根拠になっている。
この違いが起きてしまうのは、おそらく幼児体験によるものだろうと思う。
大人から見れば、大して笑う理由がなくても笑い、大して悲しむ理由がなくても悲しみ、大して理由がなくても何かを恐れるといった幼児期に特に強く印象づけられた心理に、なんらかの原因が求められそうである。
推測ではあるけれども、幼児期に親との関係で不安を感じることが多かった人は、大人になっても自信が持てないのだろう。
幼児期に極度に不安を感じた経験を持つ人は、裏返しに大人になって異常なほどの自信家や妄想家、モンスターになることがあるようにも思う。
自信のない人間、極端な自信家のいずれにしても、一緒に居て楽しい相手ではないし、むしろ一緒にいることが苦痛になることだろう。
であるからして、唯一、絶対的な存在に近いのは、幼児にとっての親ということになる。
幼児が成長し、大人になったとき、昔絶対的な存在であった生物としての親は年老い、すでに絶対的存在の座から落ちてしまっているため、神という概念を、かつて幼児であった大人が作りだしたものとも考えられなくもないのではないか。
実際に神が居ようが居まいが、いずれにしても人間とは弱いものなのである。
神なり、仏を信じる人であっても、信じない人であっても、どっちでもかまわないし、どっちが上でも下でもない。
自分に自信がある人であろうが、自信がない人であろうが、そんなものは相対的な比較で自分なり他人が勝手にそう認識しているだけのことで、そんなに大差ない。
そのときそのときで心境が変化するのは当然なことで、その心境がいつまで続くのかどうかも不確かなものでしかない。
その考えが正しい、もしくは間違っているといった、結論を得ようとは別に思わない。
ただこうして、自分なりに考えてみるのも悪いことではないのかと。
善人であろうが悪人であろうが、知識人であろうが無知な人間であろうが、何かを考えるのは自分の頭でしかできないことだし、行動するのも自分の体を使ってしかできないのだから、与えられた条件は一緒。
ダイヤモンドに価値があって、石ころに価値がないと言っているのは、たまたま現代に生きている我々がそう思っている(思わされている)だけのことで、絶対評価でもなんでもない。
とりあえず、五感なのか煩悩なのか、はたまた理性なのかは知らないが、感情なり、心境なり、理性が、その瞬間、瞬間に満足するなり、納得できればいいのじゃないか。