資本命令
経済学者はどのようにして緊縮財政を発明し、ファシズムへの道を切り開いたのか
クララ・マッテイ
緊縮政策の暗い知的起源についての画期的な考察
2008 年の余波で、資本主義国家が救済や景気刺激策から
財政引き締めへと移行するペースは驚くべきものだった。
それを理解するために展開された知的枠組みの変化にも
同様に驚かされた。
2008 年「マルクスだったら何と言うでしょうか」といった見出しが躍り
危機後の緊縮政策の傘の下での現状回復では、別の歴史的人物が復活
救済から財政健全化への急速な移行を説明するために
学者や中道左派の知識人たちはケインズに頼った。
実際、緊縮政策と資本主義危機に関する文献の多くは
経済財政危機から緊縮財政への劇的な転向を説明するために
既得権益ではなく、亡き経済学者や学者の知的影響力、
「漸進的侵入の思想」であるというケインズの格言を取り上げていた。
オバマ政権のシンプソン・ボウルズ委員会からEUの「ソブリン債務」危機に至るまで、2008年以降の緊縮財政の再開は、おとり商法として最もよく理解されている
新古典派理論の布告を武器に、政治家や政策立案者は危機の真の原因を曖昧にし
肥大化した公共部門や生活保護受給者に責任を転嫁することができた。
批評家たちはケインズの倹約のパラドックスを展開して
歴史的不況の中で実施された緊縮策の逆効果を暴露した。
成長を生み出すことがこれほど顕著に失敗していることを考えると、2010 年代を
通じて、緊縮財政が政治的に長続きしたことをどのように説明できるのか。
一部のアナリストは、新古典主義の規範によって広められた
「ゾンビの考え」を参照して、緊縮財政の持続的な力を説明
しかし、これらの説明には、2008 年以降の階級と政治勢力の
バランスについての適切な考慮が欠けていた。
2008年以降の緊縮財政に関する一般的な説明枠組みが
ケインズに頼りすぎていたとすれば、クララ・マッテイが綿密に研究した著書
『資本秩序』は、振り子をマルクスへと戻そうとした。
戦間期の自由主義テクノクラシーとファシスト抑圧による
緊縮財政のハイブリッド起源の解明に加え
主な理論的貢献の1つは、「緊縮財政の永続を不合理性や
悪い経済理論の問題に還元すべきではない」
むしろ、それは「資本主義的な社会的生産関係を維持するためのツール」として
理解されるべきという主張である。
財政、金融、産業政策の三位一体によって実施される緊縮財政には
当面の分配目的と長期的な政治目的の両方がある。
社会支出を削減し、逆進性の間接税を引き上げ
デフレ金融政策を通じて不況を画策し
それによって賃金を引き下げることによって、緊縮財政は
富と資源を労働者階級から債権者階級へと振り向け
失業と市場規律を促進することによって、労働者階級の集団的な権力を無力化し
政治的論争から隔離された中央銀行家と財務省の
テクノクラートの手による経済管理を強化する。
新古典派の教義で学んだ経済学者の助けにより、この非政治化された
資本主義経済は、客観的な真実と公平なテクノクラート管理のオーラを獲得
自称目標は均衡予算と物価安定であるが、緊縮財政の真の目的はより政治的なもの
政治的脅威を撃退し、資本蓄積に有利な条件を回復する機能がある。
資本主義経済の強化における、緊縮財政の1世紀にわたる影響(戦間期に始まり
成功はおそらく現代において比類のないテクノクラートの反革命)を理解するために
経済原則としての内部合理性は副次的に重要となった。
緊縮財政の監視員
マテイが説得力を持って主張するように、ヨーロッパ経済の再建と金融の安定が
彼らの正式な目的だったが、出席者は 緊縮財政を
「資本主義を敵から守る」メカニズムであると明確に主張
これらの会合から、勤勉と抑制された消費を通じて
実現される個人の犠牲と倹約という現代の教義が
緊縮財政を正当化する一般的なイデオロギーとして具体化された。
それにもかかわらず、緊縮財政の擁護者たちは 難題に直面した。
前例のない労働者の闘争心と政治的不満の蔓延の時代に
このような広く不人気な政策をどのように実行するのか
マテイによれば、その答えは、強制的と合意的
物質的とイデオロギー的という二重の戦略だったという。
画策された不況、賃金抑圧、大幅な予算削減は、労働者の戦闘力の補助金と
みなされている社会保険の緩衝材と低失業率を弱める可能性がある。
この規律政策の実施の中心となったのは、金本位制の復活
戦時中に正式に停止されたが、その余波で金本位制の復活は
金融安定を再確立する手段としてだけでなく、より根本的には
自由貿易、均衡予算、階級規律という自由主義的資本主義秩序を
回復するための文明の要であるとみなされた。
同時代の人々が思い描いていた金の流れの機械的な自動性によるものではなく
デフレの砦である「独立した」中央銀行によるものが多かったとはいえ
財政と金融の緊縮財政の義務を強制することにより
金本位制はマッテイ氏の言葉を借りれば「危険に耐える」ものとなった。
それは資本主義的所有関係への大衆政治の侵入に対する防火壁であると
同時に、階級規律の保証者でもあった。
金本位制の厳格化により、緊縮改革は
もはや「政治的論争の問題ではなく、経済的必要性」となる。
マイナス金利解除ねぇと思っていたら、利上げの観測気球には、正直、驚いた。
そして、続々と財務省の御用学者や御用評論家が
金融正常化と称して、利上げと出口戦略を喧伝して回っている。
せっかく日銀に移した国債を、わざわざ民間金融機関へ移せと言っている。
ご丁寧に、利上げしたらこれだけ利払いで
「国の借金」が増えると騒いでいる。
じゃあ移さなきゃいいじゃん、日銀に保有させておけば
ほとんど国へ返ってくるんだから、にゃんで民間に移して利上げで利払い増やすの
カルト宗教の教団連中は、「ザイム真理教」の騒ぎ屋さん
騒ぐことによって、お金を儲け、職を得る。
デフレの番人である日銀を、また奪回に成功した。
これで、緊縮財政と増税を正当化できる。
金融正常化は、緊縮財政の強いメッセージ
悪いインフレ・需要不足の中で、狂気の政策を実行しようとしている。
ドッジ・ライン不況みたいな「安定恐慌」状態になるかも
いや~「維新スピリッツ」は、怖い。
こりゃ、もうエビにでもなるしかないか。