【中古】哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考 (角川ソフィア文庫)のサムネイル

 

貨幣について書かれた部分を書き出してみる。

マルクスの「資本論」のポイントの要約部分でしか見られないが。

 

 

 

商品が生み出され、人々はそれを消費する。

人々は商品につけられた価値を、同じ価値の貨幣によって買う。

 

 

(略)

しかし資本主義とは、お金がお金を”増殖”させるシステムである。

資本家だけが生産手段を所有し、そのことで自分の貨幣を”増殖”させることができる

 

 

(略)

つまり、単なる「貨幣」が自分自身を増やすもの、

すなわち「資本」となるその秘密は何か。これが第一に置かれた問いである。

 

 

これについてのはじめの答えは、「貨幣」という商品の独自性である。

貨幣は、商品の交換を媒介する手段であるとともに

 

 

それ自身一つの「商品」でもあるが、

ほかの商品と違って独自の性格をもつ。

 

 

はじめ貨幣は、商品の価値を表示する単なる「信用票」のように見える。

しかし、それはむしろ、その流通によってあらゆる商品を

 

 

「価値」の一般的体系へと組み入れてしまう独自の商品である。

 

 

どんな商品も個々人にとっては具体的な「使用価値」という側面をもつ。

だが、さまざまな商品の中から「貨幣」が

 

 

商品の「王」(メタレベル)として選び出されることで、あらゆる商品は

すべてが価格順に並べられる”一般価値の体系”に組み込まれる。

 

 

言い換えれば一切の商品をその価格順に並び換える。

これこそ貨幣の独自の不思議な性格であり、

 

 

そして、まさしくこのことが貨幣が

「資本」となるための前提である。

 

 

 

 

この後は、貨幣がどのようにして「資本」になるのかなので、もういいだろう。

そしてここ以外に、貨幣というものに迫った個所がない。

 

 

 

これを読んで違和感があるのは、当然である。

なぜなら、「商品貨幣論」が自明になっているからだ。

 

 

突然、貨幣が出現することに疑念を感じないとすれば

もうそれは既に、哲学的態度からはみ出している。

 

 

哲学は、常に「問い」が発生し、一から思考する。

突然、貨幣が登場し、それはどこから来たのか

 

 

そしてもっと追い詰め、一体、貨幣とは何なのか

その本質とはどういうものなのか、こうした問いこそ真に哲学的姿勢である。

 

 

 

5年かけて経済学を学ぶというので期待していたが、

主流派経済学程度で使用する数学をやった形跡がない。

 

 

 

このレベルの数学であれば、中学数学から始めても2年あれば十分

苦手だとしても、5年もあればお釣りがくる。

 

 

経済学を学ぶというのであれば、高校3年生水準までは習得してから

学び始めないと、まず論外である。

 

 

基礎も習得できていないのに、地球環境が危機であるとか

温暖化、二酸化炭素犯人説、脱炭素などなど大仰なことを語られても困る。

 

 

 

まず貨幣とは何か、これについて基礎知識がないのに

「哲学者が経済学を学んだ」、このこと自体が相反している。

 

 

学んだ上で「商品貨幣論」によって立つのは、まだいいだろう。

メソポタミア文明から議論していくことができる。

 

 

しかし、なんというかそれ以前の問題で

数学で言えば、小数や分数ができていないのに

 

 

微分方程式を解こうとしても

それは、はっきり言って不可能である。

 

 

次は、竹田先生が習得したところを

哲学だけやっていれば、この人も価値を落とさずにすんだのかなぁ。

 

 

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