「国家は、支配階級の諸個人がかれらの共通利害を主張する形態、

そして一時代の市民社会全体が集約されている形態である。

 

(略)

そこから、まるで法律が意志に、しかもその実在的土台から

きりはなされた意志、すなわち自由な意思にもとづくかのような幻想が生まれてくる

 

 

そうなれば、また法も、おなじく法律に帰着させられてしまう」

カール・マルクス  『ドイツ・イデオロギー』

 

 

 

 

ヘーゲル左派から、ヘーゲルの国家論を批判した

マルクスの「国家」の本質

 

 

「国家」とは、階級支配の正当化のための

欺瞞的な手段としての「幻想的共同体」である。

 

 

「国家」は民族や宗教という「一体性」の幻想によって結合の原理をえるが、

実際には「法」と「権力」を通して「私的所有」を正当化し、

そのことで階級支配を維持する装置である。

 

 

 

「私的所有」はもともと人間社会には存在しなかった。

その発生は「分業」の発生に由来する。

 

 

分業、私的所有、そして私的所有の「法」による

正当化というプロセスをへて、「国家」が現われた。

 

 

 

したがって、「近代国家」とは、人間の「自由」の展開の

最終的な到達点などではない。

 

 

その反対に、むしろ「宗教」→「法」→「「国家」という形をとって進む

階級支配の展開の最終形態にほかならない。

 

 

 

「私的所有」を廃止することで、

階級支配の道具としての「国家」は、廃絶される。

 

 

 

「国家」(近代国家)には、人間の「自由」を

実現する可能性の原理は存在しない。

 

 

「国家」の本質は、階級支配の道具であり、

「法」とその経済システム(資本主義)を通して、人間支配を貫徹し、完成する。

 

 

したがって「国家」の廃絶なしに

真の「自由の国」は、実現しない。

 

 

 

「国家」とは、伝統的秩序であれ近代国家であれ、

支配者階級の利益を「幻想的共同体」によって、正当化するシステムである。

 

 

「近代国家」は、普遍的な主奴構造からの人間の解放の「完成形態」であるどころか

階級支配の最終的な完成形態にほかならない。

 

 

 

現代では、この国家は「幻想的共同体」であるという批判は、

だいたいこういう系譜を持っている。

 

 

近代国家は、その国家幻想の一体性によって、伝統支配の直接収奪に代わる

文化的馴致による主体=個人の「国家」への隷属というシステムを作り出した。

 

 

グラムシ、アルチェセール、フーコー、

ベネディクト・アンダースン、ブルデュー、

 

 

日本だと、吉本隆明や柄谷行人などの国家批判は、大枠ではそう。

 

 

「国家」は幻想であり、正当性を持たず、

その「自由」は欺瞞的である、これが一般公式になっている。

 

 

 

いわゆる左翼イデオロギーは、

このマルクスの引力圏から抜け出ることはない。

 

 

なぜ彼らは、反国家なのかというと、

国家は、階級支配のための「幻想的共同体」であるというテーゼによる。

 

 

もはや現代でマルクス思想に嵌ってしまうことなど考えられないのだが、

なぜか、マルクス思想に嵌った人は、真実を知ってしまったと思いこむ。

 

 

構造的には、カルト宗教にのめり込んだ人たちと似ている。

ただ高齢者に関しては、そういう時代もあったんだな、ぐらいでいいだろう。

 

 

しかし困るのは、現代においても

ハマってしまう人びとが少なからずいることだ。

 

 

現代のほぼすべての国家批判は、「国家」は幻想であり、

正当性を持たず、その「自由」は欺瞞である、この図式。

 

 

 

最近、出て来た「斎藤幸平」は、晩年のマルクスを読み解けば

実は、環境主義者だったと主張する。

 

 

しかし、根底に流れるものは、「国家」は、個々人の自由を抑圧する

「幻想的共同体」、国家を打倒しなければならないというマルクス・テーゼである。

 

 

手段を問わず、国家さえ打倒すれば、個々人の「自由」は解放されるという

思想は、あまりに素朴すぎ、お粗末でしかない。

 

 

【中古】哲学は資本主義を変えられるか ヘーゲル哲学再考 (角川ソフィア文庫)のサムネイル

(P75~P78)