市民社会原理を基礎とするヨーロッパ「近代国家」の理念は、
19世紀半ばから、国民国家の形成が矛盾を孕みつつ
進行したイギリス・フランス・ロシアなどで、
さまざまな批判思想を生み出すこととなった。


近代社会は「自由」と「平等」のアポリアを
解決する原理を見いだせない(ジンメル・「社会学の根本問題)


近代国家が実現した各人の「自由」は、
各人を自由なままに、より深刻な経済的支配構造に
組み込むことを可能にした、


偽りの「自由」にすぎなかったとするマルクスの批判、
この2つに象徴されることができる。


もちろん「近代国家」なしに各人の「自由」の解放はありえなかった。
けれども、生の条件の「平等」をもたらさなかった。


それどころか、格差の拡大が国家間でほとんど
修正不可能なものと見え始めたとき、


この矛盾は、「近代国家」と「資本主義」
それ自体に対する深い絶望を呼んだ。


「近代国家批判」と「資本主義批判」を代表するのは、
ヘーゲル左派から出た社会主義(マルクス、エンゲルス)と
アナーキズム(プルードン・バクーニンなど)であり、


実証主義的な社会科学の系譜に連なる、コント、スペンサー、
ミル、ベンサム、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバーになる。


19世紀以降、「近代国家批判」の思想がほぼ仮想敵にしたのは、
「近代国家」理念の代表格であるヘーゲルである。


ポストモダン思想を代表とする
現代思想においても、事情は変わらない。


ヘーゲルは近代国家理念の完成者であるとともに、
「ヨーロッパ近代」理念の完成者とも見なされており、


近代国家批判がラディカルなものであればあるほど
ヘーゲル哲学に対する対決が重要な課題と意識されてきた。


「(略)これらヘーゲル批判でつねに中心をなすのは、
一元論的・汎神論的世界観の完成者としてのヘーゲルが、


同時に、国家と個人の関係においてつねに「国家」の優位を
前提とした近代国家理念の完成者でもあった、という観点にほかならない。


ヘーゲルはいわば近代観念論の「形而上学的」
「全体主義的」思想を解体することができず、


そのため結局、近代的個人の存在意義よりも
国家の全体性を擁護するものとなった。


これがヘーゲル哲学に対する批判の一般公式である。


ヘーゲル哲学が、世界を絶対的な全体性、完成性として
性格づけようとするスピノザ的汎神論の系譜にあり、


近代哲学における「形而上学」の完成者であるという見方は
現代思想にまで連綿と続いている(略)」


現在、世界が混迷の度合いを深めれば深めるほど、
我々は、哲学の作法である、一から再出発を図ることに
立ち戻る必要性に迫られている。


近代哲学の批判の急先鋒であったマルクス主義を
焼き滅ぼしたのは、モストモダンの功績なのだが、
この相対化手法に大きな問題点がある。


確かに相対化させることで提出された思想の過ちを
解体させることができる。


けれどもそれによって、次の原理を生み出すことはできない。
近代哲学からマルクス主義そして現代思想(ポストモダン)の中で、
決定的な狂ってしまったことが原理の提出不可なのである。


現代思想が近代哲学のように原理を提出できないから、
我々は、次の世界像を示すことができないでいる。


陳腐な近代批判にまみれた世界像の中で生きた人々は、
その中身をよく吟味しないで、マルクス主義にかぶれたり、
通俗的な共同体原理に立ち戻るといった反知性主義者なのかもしれない。


例えば、EUの理想は現実にそぐわないというよりも、
反知性主義者たちの戯れにすぎなかったと云える。


米国はもっと最悪で近代以前、つまり中世にとどまっている。
にも関わらず、米国に倣えという反知性主義者たちが
異常に増殖してしまっており、彼らにはかける言葉の
欠片さえもったいない。


彼らに抗しているのは、文学や歴史といった
いわば哲学の副産物のようなもので、これでは敵わない。


もっと下流の分野になると、これはもう果たして学なのかと言いたくなる。
その代表格が、経済学で、もう宗教に近い。


次回は、ウィリアム・ジェームズからいく。


パクリまくった、またこれからパクリまくるテキストは、
「人間的自由の条件」ヘーゲルとポストモダン思想
竹田青詞 講談社