近代国家に関しては、ルソーの問い、


人間は自由に生まれたのに

なぜいたるところで鎖につながれているのか、


ではなく、



人間は自由な存在となったのに

なぜいたるところで不合理が支配しているのか、



この問いこそ本質的であると、竹田先生は云う。



たしかに、いたるところで、如何にして

近代国家が、すなわち国民国家と資本主義が

このような不合理な支配を正当化してきたのか、

と問われてきた。



それよりも、近代国家とは何か、という問いを竹田先生はたてる。

理由は、事実の前に本質が問われなければならないからだ。



「反資本主義」という概念によって
資本主義システムを克服することはできないし、
「反国家」の概念で国民国家を乗り越えることもできはしない。


ニーチェは、このような対抗思想を、思想的な僧侶たちによる
「善悪」の価値の反動形成的変造という。


それは、「良いは悪い、悪いは良い」と言明することで世界を反転し、
ネガとなった世界像を作り出してしまう。


「(略)過酷な競争原理としての資本主義、
そして新しい利益共同体単位としての近代国民国家が


巨大な”問題”であると意識されているとき、
しかし同時に、それらを支えている強固な本質と必然性が存在する。


一つの権威的世界像を幻想的な仕方で相対化することは、
つねに対抗的信仰の共同体を作り出すことに結果するだけであって、


必要なのは、まずその本質と
必然性を理解することである。


近代の思想家の中で、近代国家の存立の本質と必然性について
もっとも根本的な理解の像を示したのは、哲学者ヘーゲルである。


しかし彼はそれを、きわめて独自かつ奇妙な仕方で、
すなわち、最も根底的で本質的な近代の理解を


まったく形而上学的な”神聖なる”世界像のうちに
閉じ込めるような仕方で、示した。


このことは、現代思想にさまざまな歪んだ影響を与えている。
自覚的にであれ、暗黙裡であれ、近代国家の矛盾を超え出でようとする


現代思想は必ずいったんヘーゲル思想という関門を通るのだが、
しかしほとんどの場合、「近代の批判」は


「形而上学の批判」へと還元され、その結果、
近代社会の本質の把握がつねに曖昧なままに残されてきたのである。


わたしがこの論考で試みたいのは、ヘーゲルが残した
近代社会の本質の理解を再構成すること、


そしてそれを現代思想における
近代の理解に対置してみることである。


「人間は自由な存在となったのに
なぜいたるところで不合理が支配しているか。」


この問いを、最も本質的な仕方で問うためには、
まず否定的ー反動形成的問いを焼き滅ぼす必要がある。(略)」



ふう、パクリ疲れた。


パクリまくった、またこれからパクリまくるテキストは、
「人間的自由の条件」ヘーゲルとポストモダン思想
竹田青詞 講談社