「(略)ヘーゲルは真なるものを主体としても

記述することを通じて、換言すれば

人間的実在に特有の特徴を分析することを通じて、



存在と実在するものとの弁証法的構造及び

この弁証法的性格の基礎にある否定性

という存在論的カテゴリーを見出す。



彼が真なるものと真理との円環性、

したがって彼の哲学そのものの円環性を

見出して行くのも実在する弁証法の

記述を通してである。(略)」

(「ヘーゲル読解入門」)



上記のような言い方が象徴しているのは、

「否定性」こそヘーゲル哲学の根本概念である、

コジェーブのヘーゲル解釈の第四の力点だ。



一般的に、ヘーゲル哲学体系(論理学ー自然哲学ー精神哲学)は、

「実体としての精神」=「神」という世界の絶対的な

「全体」についての存在論と言われている。



けれど、ヘーゲルにとっての「真に存在するもの」、

「真なるもの」とは、単にそれ自体として存在する

全体ではなく、世界の生成変化の”プロセスの総体”

として考えられている。

(そこがスピノザ、フィヒテ、シェリングとの相違点)



またこの変化、生成のプロセスを担う原理が

「主体的なもの」として構成されている。



ヘーゲルはこの「主体」の原理を「人間存在」に、

すなわち人間存在が絶えず「否定性」によって

世界のありようを分裂させ、そのことで時間を

展開させていく、という点に求めた。



まさしくこのことによって、ヘーゲルは近代の

「人間学」の根本原理を確立した。



『(略)人間のこの「否定性」の原理は、もちろん

動物におけるような「他の存在」の単純な否定ではなく、

人間の否定性は、本質的に自分が「死すべき存在である」

という死の自覚に根拠をもつ。



死の自覚は自己の「限定性」

「有限性」の意識を生み出し、

それが意識に反照することで

まさしく人間的意識の本質である

「無限性」(=自由)の意識を生み出す。




こうしてそれは、各自が「自己意識の自由」を

追求するせめぎあいとして「主と奴隷」の弁証法を必然化し、

人間の「歴史」を、奴が、主に対する死への畏怖の中で、

「労働」を通して自己の自由を現実化してゆく

プロセスとして生成する。



だからこそ「ナポレオン革命軍の労働者ー兵士」の国家は、

奴が自己の「自由」を実現することで終焉する「歴史」の

最後の場面となるのである。



こうして、ヘーゲル哲学は、人間存在に「死の観念」を

導入することで人間を「否定的な主体」と置き、

そのことによって、これまでの「神学」としての

世界の存在論を「人間学」としての世界の存在論に

決定的に変更した。



人間の意識(自己意識、理性)は、「死」を含むことによって

「無限性」への希求という本質をもつ。



このことを論証することによって、ヘーゲルは、

「絶対精神」(あるいは世界の総体)が、

「無から世界を創造する永遠の神ではなく、

そこで自己自身が歴史的人間として

生まれ死ぬ永遠かつ所与の自然的世界を

否定する人間である、ということを論証」した。(略)』



「(略)自然もしくは神が(実在的或いは「物理的」空間として)

存在する存在ならば、人間は在るところのものを

「弁証法的に揚棄し」、あらざるところのものを

創造することによって、(行動もしくは実在する「歴史的時間」

となって)無化する無である。(略)」

(「前傾書」)



このように、「否定性としての人間主体」という概念は、

コジェーブのヘーゲル理解全体の背骨になっている。



デコンプはこのヘーゲル論の性格を

「無の人間化」と読んでいて、コジェーブの説が

ポストモダン思想に与えたものをよく象徴している。



ハイデガー思想を経由したヘーゲル解釈であり、

近代的な人間の存在論として「実在論化」された

ヘーゲル思想といえるだろう。



『(略)ちなみに言えば、デコンプは、アドルノ、デリダなど

にならって、コジェーブの説くようなヘーゲルの「否定性」は、

しかし「自己同一性」に還帰するような否定性であって、

真の否定性とはいえない、という立場をとる。



そしてこの「反同一性としての否定性」の立場こそは、

コジェーブが取り出したヘーゲルの「否定性」の人間学が、

ニーチェ的な解体の視線をくぐって現われたまさしく

ポストモダン的な「否定性」の概念だったことは、

いまでは誰もが知っている。



ちなみに、コジェーブ的なヘーゲルの「否定性」の

概念のもっとも積極的な継承者はラカンとバタイユであろう。



ドゥルーズはラカンが受け取った「欲望の否定性」を

「欲望の肯定性」として修正したが、

スラヴォイ・ジジェクはヘーゲルの「否定性」を

もう一度評価しなおしている。



またべつの文脈からリチャード・ローティは

ヘーゲルの「否定性」を評価している。(略)』



ジジェクは、ラカン派マルクス主義者に分類される。

「ラカンはこう読め」とか「パララックス・ビュー」などの著作がある。



竹田先生は、たしかジジェクをスーパーポストモダニスト

と評していたが、自分は徹頭徹尾、マルクス主義者と捉えている。



昔、内田樹がやたら「ラカンはこう読め」を推奨していて、

おおーと思い、ジジェクをそこそこ読んだが、

マルクス主義者だとわかって、げんなりした。



この種の人々は、批判だけ超一級品なのだが、

それだけしか能がない。



ぱくりたおしているのは、いつものように

「人間的自由の条件」(竹田青嗣・購読社)