現代に生きるわれわれが、ヘーゲル体系を

前にすると、誰も、古色蒼然たる神学的な述語系列によって

うち立てられた壮大な建築物であると

感じざるを得ない。



ヘーゲルの体系をただちに汎神論と

言うことには語弊があるのけれども、

それがヨーロッパ哲学におけるいわば

最後の神聖な世界像に属するものであることは

明らかであって、その証拠は、彼のテクストの

任意の場所からいくらでも容易に取り出すことができる。



「(略)われわれの区分によれば、哲学はまず

純粋な思考の展開という論理的なものを考察し、

次に自然を考察する。



第三に、自然との関係における精神、つまり有限な精神である。

この有限な精神が絶対的な精神へと高まり、

これらすべての最終的な帰結が神である

というところに哲学の歩みはたどりつく。



この最高のものとは神が存在することの証明である。

すなわち、一切を包括し包含するこの端的に

普遍的なものによってのみあらゆるものが

存在し存立すること、この普遍的なものが

真理であること、この証明である。(略)」

(『宗教哲学講義』山崎純訳)



「(略)神と悪を和解させる認識が、世界史におけるほど

強く要求されるところは、ほかにありません。



この和解を達成するには、悪という否定的なものを

支配し克服してゆく、肯定的なものを認識する以外にはなく、

真の意味での世界の究極目的はなにかを意識し、

その目的が実現される過程で、

悪が最終的に存立の基盤をうしなうことを

意識しなければなりません。



そのためには、理性(ヌース)や摂理をただ信じる

というだけではまったく不十分です(略)」

(『歴史哲学講義』長谷川宏訳)



「(略)あらゆる存在の具体的な、しかも最後の最高真理

として出て来た絶対精神が今度は更に、

その発展の終局において自由に自分を外化して

自分を直接的有の形態に解放し、----

世界の創造を決意するものとなるのである。(略)



それ故に、学(論理学のみならず一般に哲学)にとって

根本的なことは、(略)学の全体がそれ自身の

中で円環運動をなしており、そこでは最初のものが

最後のものであるとともに、最後のものがまた

最初のものでもあることになっているということである。(略)」

(『大論理学』第一巻 武市健人訳)



絶対的精神は、自らの中に永遠に存在しまた自己に

帰って行き、帰ってきた同一性であり、

精神的実体としては一つのそして普遍的な実体であり、

自己と自己の知とに根源的に分かれる(略)」

(『エンチュクロペディー』



このようなヘーゲル哲学をマルクスは、

どのように評したのか。



ヘーゲルの体系は、論理学から、つまり「純粋な思弁的思想」から

はじまって「絶対知」すなわち自分自身を把握する

超人間的な抽象的精神で終わる。



だからその全体系は「哲学的な精神」の

「自己対象化」にほかならない。



そして「哲学的な精神」とは、「おのれの自己疎外の内部で思考」し、

ただ抽象的にのみおのれを把握するような

「疎外された世界の精神」にすぎない。



つまりそれらは、「(略)いっさいの現実的規定性に

たいしてまったく無頓着になったところの、

それゆえに非現実的な(略)、外化された思考、

したがって自然と現実的人間とを捨象した思考、

抽象的な思考である。(略)」

(『経哲草稿』第三手稿 藤野渉訳)



「(略)ヘーゲル体系の全体像を見たあとで

マルクスのテクストに移動してみると、

あたかも旧約聖書から新約聖書に読み進んだときのような、

世界の自由な開けひらかれがある。



重苦しく荘厳な神学的述語の森から、

自由に息づく人間の思考の空間へと

歩みだしたように感じられるのである。



一切はマルクスの言うとおりであり、

ヘーゲル哲学にいたるヨーロッパの観念論=

形而上学はついに鉄槌を下されたように見える。(略)」



竹田先生のような年代以上の人々にとって、

この皮膚感覚が、マルクスに魅了されたのだろう。



観念論を捨象したがゆえの「分かりやすさ」

これが一世を風靡し、マルクス支持者が今も

かろうじて生き延びているのだといえる。



しかし、マルクスによって打ち倒されたのではない。

そしてそのことにははっきりとした理由がある。



簡潔にいえば、ある時期以降、ヨーロッパ近代において

一つの世界像が終焉を迎えたためである。



それは、まさしくニーチェが看破しジェイムズが指摘したような

「全体」「絶対」「究極」「真理」といった諸概念によって

支えられた伝統的な神聖化された世界像の周縁に

ほかならない。



この古典的な世界像が終焉したのは十九世紀後半から

二十世紀前半にかけてでああった。

ヘーゲルは1831年に没している。



コント、スペンサーに発する実証主義(社会学)、

唯物論を基礎とする社会主義とアナーキズム、

ダーウィニズムとニーチェ思想の衝撃、

そして電磁気学などを契機とする十九世紀後半の

めざましい科学技術の発達などが、この世界像を

もはや現実的なリアリティを持たない思想の遺物へと

変えたのであって、マルクスでは断じてない。



近代哲学の巨大な建築物であるヘーゲル哲学体系は、

後続のあれやこれやの哲学や思想によってというより、

むしろこの時代にヨーロッパの伝統的な世界像が

さまざまな分野にわたって加速度的な転換を遂げた

という事実によってうち倒された、というのが妥当である。



というのは、ヘーゲル哲学の体系が現在でもそのまま

受け取ることのできない遺物めいたものになったという事実は、

後続の思想がヘーゲル思想を徹底的に批判しより

本質的な哲学の諸原理をうち立てた、

という事実に伴われているわけではないから。



「(略)わたしはむしろ、次のような仮説をここで提出してみたい。

いま見てきたような観点からは、たしかにヘーゲル哲学の体系は

古色蒼然たる”神学的な世界像”の刻印を帯びているといえる。



しかし、もしヘーゲル哲学が単にそのようなものだったとしたら、

なぜヘーゲルは現代思想における最大の仮想的と

され続けてきたのだろうか。



かくも多くの人々がヘーゲル哲学から

受け取っている大きな威力の実質は何なのだろうか。



あるいは、そのような神学的世界像にもかかわらず、

ヘーゲル哲学のうちにまだ十分に読みとられていない

「近代」についての本質的思考が封じられているとしたら、



どうだろうか。(略)」



やっとこれから近代精神の本質にはいってゆける。

それにしても、マルクスの影響はかなりのものだったのだろう。



ここ百年ほどの歴史と現代思想のポストモダンに

マルクスは徹底的に解体され、その虚言は叩き潰された。



自分はそれ以降の人間なので、マルクスには一切

興味がなく、現代思想から入ってきた。

だが、現代諸思想には、どうも納得がいかなかった。

そこで、戻ろうと考え、近代哲学を学んだ。



近代哲学を学ばないと現代の思想家たちの

ほとんどがそうであるように、いわば流行通信になってしまう。



ということで、卓越したコジェーブのヘーゲル論と

現代思想に竹田先生の力を借りながら、

次回は、進むことになる。



ぱくりたおしているのは、いつものように

「人間的自由の条件」(竹田青嗣・購読社)