近代とは何なのか、これが現代諸思想に

ちゃんと引き継がれていない。

その影響が、この混迷きわまる現代において、

底流に流れており、あちこちに飛び火している。



近代精神の本質というテーマを

竹田先生と共に追ってゆけば、

見えてくるものがある。



哲学は、現代諸思想のように流行通信ではない。

きちんと積み上げられた学である。

それを踏まえないと先へは進めない。



カントやヘーゲルも知らないのに、

ニーチェが理解できないのと同じく、

近代哲学を理解していないものが、

流行っているからといって、現代諸思想に向かえば、

目的地のない漂流者になる。



だから竹田先生からきちんと学ぶことを

行っていきたい。



まず、近代国家というものである。

これに問いを立てるならば、



「人間は自由に生まれたのになぜいたるところで

鎖につながれているか」ではない。



「人間は自由な存在となったのに

なぜいたるところで不合理が支配しているか」

この問いこそ本質的であると先生はいう。



そう確かに、近代国家、すなわち国民国家と

資本主義がこのような不合理な支配を正当化して

きたのかという問いばかり見てきた。



ハイデガーに従って、あるを問うならば、

近代国家とはなにか、という問いが必要である。

事実の前に本質が問われなければならない。



反資本主義という概念によって

資本主義システムを克服することはできない。



また、反国家の概念で、国民国家を

乗り越えることもできはしない。



なぜなら対抗思想であり、ニーチェのいう

思想的な僧侶たちによる「善悪」の価値の

反動形成変造にしかすぎないからである。



よいはわるい、わるいはよい、と言明して、

世界を反転し、ネガな世界像を作り出す。



「(略)過酷な競争原理としての資本主義、

そして新しい利益共同単位としての近代国民国家が



巨大な”問題”であると意識されているとき、

しかし同時に、それらを支えている強固な本質と

必然性が存在する。



一つの権威的世界を幻想的な仕方で相対化することは、

つねに対抗的信仰の共同体を作り出すことに

結果するだけであって、必要なのは、

まずその本質と必然性を理解することである。(略)」



近代の思想家の中で、近代国家の存立の本質と

必然性についてもっとも根本的な理解の像を

示したのは、ヘーゲルである。



しかし、このヘーゲルは、独自かつ奇妙な仕方、

もっといえば、まったく形而上学的な”神聖なる”

世界像の中に閉じ込めるような仕方で、示したため、

現代思想にさまざまな歪んだ影響を与えてしまった。



このヘーゲル思想はいわば関所で、

自覚的でも暗黙裡でも、近代国家の矛盾を

超え出ようとする現代思想は、必ずいったんここを通る。



けれどだいたいが、近代の批判が、

形而上学の批判へと還元されてしまう。



その結果、近代社会の本質の把握が

つねに曖昧なまま残されてきた。



先生が試みるのは、ヘーゲルが残した

近代社会の本質の理解の再構成と

それを現代思想における近代の理解に対置することだ。



『(略)「人間は自由な存在となったのに

なぜいたるところで不合理が支配しているか」。



この問いを、最も本質的な仕方で問うためには、

まず否定的ー反動形成的問いを焼き滅ぼす必要がある。(略)』



以前、資本主義のアポリアを書いた。

今回は、その続編である。



世界がやたら混迷の度合いを深めてゆく中、

以前にもまして、哲学が必要になった観がある。



世界がきしみ続け、人間はより自由を失っていく。

表層的な思想はあるけれども、

本質的ではない、もしくは、対抗思想でしかない。

これでは、不合理の支配から逃れられない。



ぱくりたおしているのは、いつものように

「人間的自由の条件」(竹田青嗣・購読社)