乙武問題が、ネット上を賑わせている。

現象学系の哲学者として、生活世界を論じてみたいと思う。

なぜなら、差別の問題の本質に迫れるからである。



いくつか、私の認識に誤った点があるかもしれない。

それを覚悟して、思索する。



乙武問題の発端は、イタリア料理店で起きたことである。

上手に論点をまとめてくれてあったので、無断で使用する。

(申し訳ございません)



①店の状況
・店は14席、2名のスタッフ、狭い階段しかない

隠れ家的な小さな店で乙武氏は食べログを見て知っていた。



・このような形態の店で調理を中断しての介助は

困難で他の客へのサービスも出来ない状況となる。



②抱え上げることについて
・抱き運ぶことの拒絶であり入店拒否ではない、

にも関わらずブログを「イタリアン入店拒否について」としている。



・40kgの乙武氏を介護専門職でない人間が

運ぶことは危険、違法である可能性も。



・小店舗のバリアフリー対応は努力義務、

合理的に困難であることは拒絶できる、

店が乙武氏を抱き運ぶことを拒絶することは法的に正当。



③乙武氏と連れの女性の行動
・外出時にバリアフリー状況を下調べしない、

車椅子であることも告げないと公言。



・事前に車椅子であることを告げず

店を訪れたときに突然2階まで抱き運ぶことを求める。



・事前に告げていれば人員増強、椅子等の配置、

オープン前の案内など配慮出来る余地があった。



・正当な拒絶なのに連れの女性は店内で

「車いすの人が来たら、迷惑ってことですか?」と取り乱した。



・自分への配慮を求めるが店に対する配慮の欠片もない



・「いや、それが常識なのか、僕にはわからないです。

そもそも、僕はこれまで一度もそんなことをせずとも

外食を楽しんできましたし」と事前に車椅子であることを

告げることは常識ではないと主張。



・「じゃあ、それが本当に常識なのか、広く世に問うてみましょうよ」と

発言してツイッターに載せたが、世論の反応に対してのコメントはない。



④ツイッター上で
・「.@」で店名を晒してツイート、意図的にフォロワーに店を攻撃させている

「問題提起」としているが「私怨」である、過去にも同様のことをしている。



・都合のいいツイートにだけリツイートして

タイムラインに表示させ都合の悪いリツイートは表示させない。



⑤ブログで
・ツイッターでは「車椅子を理由に入店拒否した」

「店主の発言が不当である」、ブログでは

「拒絶されている『印象』を受けた」と論点が変化 。



・ブログで「入店拒否で怒っているのではない」

「店主の接客態度が悪かった」としている、

単なる感情論からの言い争いを「障害者差別」にすり替えている。



・ツイッターとブログで状況・店主の発言・口調が大きく異なっている
・ブログと矛盾のある「銀座での屈辱」のツイートを削除。

まず①から見てみよう。

乙武と他のお客さんとお店の関係の構造から鑑みるに、

お店の人たちの視点では、

乙武を優先しようとすれば、

他のお客さんに迷惑をかけることになる。



他のお客さんを優先すれば、

当時のお店の人数から考えて、

乙武にさける余力はない。



ここで、行き当たるのは、乙武の自由と他のお客さんの自由、

そして、お店の自由、この3つの自由の問題になる。



いまのところ自由の概念は、

他人の自由を侵害しないかぎりにおいて自由である、

というものになる。



そしてこの概念が、一応の普遍性をもち、

日本の生活世界に浸透している。(はず・・)



お店の自由は、乙武を優先するか、

それとも、他のお客さんを優先するか、

でありどちらを選択しても問題はない。



他のお客さんの自由の視点からすれば、

乙武の放埓な自由の行使によって、

受ける被害はとても大きい。



具体的には、恋人同士が会話をし、

おいしい料理を満喫し、楽しい時間を送ることができる。



また、老夫婦の場合なら、こんな情景が浮かぶ。

おいしいと噂を聞いて、予約してきたけど、

大正解だったねぇ。



また、来ようね。

それにしても、これはどうやって作るのかしら、

この味は、どうやってだしているのかしら、

私も、家でチャレンジしてみるわ。



などという一見どうでもようさそうだが、

実に、生活世界での大切な幸せが提供されているように思う。



つまり、他のお客さんの自由をお店が選択すれば、

経営的な視点でも、料理人の誇りとしても、

お店の欲望を満たすことができる。



乙武の自由を優先した場合は、

どうなるのであろうか。



②③から考えると、非常に危険で、違法かもしれぬ、

方法を選択せざるをえない。



ボクシング経験者という格闘技者視点で、私は乙武を

お店の中に連れて行くことが出来る。



肩に乗せれば、70kgから90kgまでは、可能である。

肩に乗せないとすれば、片手もしくは、両手でということになる。。



しかし、自力で上れるのに、自分のスーツが汚れるから

という理由で、運ばされるのは論外である。



仮に私が資格を有していないけれども、

違法行為をもし行うのなら、乙武にも

このお店の料理を味わって、笑顔をみたいという

私自身の欲望から湧いて出てくるものである。



また困っている人を見捨てることはできないという

日本人の誇りが、いっそう私をそういう行為に駆り立てる。

これもまた、自己意識の欲望から出てくる。



この場に私が居合わせたと仮定しよう。



どないしたんや。

ん、上れるけど、服汚れるねんな。

でも、どうしても喰いたいんか、オマエ。



んで、乙武が喰いたいと希望した場合、

そこで、私はお店の人にお伺いを立ててみる。



このものが、どうしてもあなたがたの料理を味わってみたいと

申しているので、私が運びますから、お願いできますか。



それで、「いいですよ」との返答をいただいたら、

おおーよかったな、オレがはこんでやっからよー、

どこもったらええんや、そか、んならいくぞ。



ほんでな、ちゃんとお店の人たちに礼をいわなあかんぞ。

事前にちゃんと聞いとくのが日本社会の常識や、

それをごしおししようとするから、問題が起きるんや。



など、運びながら説教をすることになる。

教育の現場の人間として、きちんと説明してやる。

私という個人がおそらく行うだろう、想定をしてみた。



乙武の自由を優先させた場合のことを想定してみよう。

事前予約もいれていないから、

お店の人たちは、おおわらわになる。



なにせ、介助の人がいないのだから、

お店の人が、危険を避けるために、

最低でも2人で、えっせこらっせと運ぶことになる。



乙武の車イスさんは、100kgもある代物だから、

路上に、置いておくしかない。

ところが、駐輪禁止の場所である。



えーい、仕方ない、食べる時間だけ、

放置させてもらおうとなる。



こういうケースで、よく問題が生じるのは、

下の階の方々や、通行している人々の苦情である。



学習塾は、年がら年中この問題に悩まされるので、

駐輪場を確保していることが多い。

怒鳴り込まれることも、少なくないからだ。



さて次に、乙武を店内へといれて、

乙武に料理を提供したとしよう。



乙武をやっせこらっせと運んでいる間、

他のお客さんは、待たされて、

どーなってんの・・・と疑念をもつことになるだろう。



そこに、乙武が運び込まれて、他のお客さんは、

あー、そういうことか、こりゃたいへんだと理解してくださるだろう。



お店の人は、これからたいへんだ。

お待たせした他のお客さんたちに、

急いで、料理を出さないといけない。



それも、お待たせして申し訳ございません、

と運ぶたびに、謝らなければならない。



みなさんに出し終わって、やっと乙武の料理を

作ることができるようになる。



乙武に料理をだしても、他のお客さんがやってくるだろう。

忙しさは、マックスの時間帯である。



お店の人は、頑張って、働いている最中、

乙武が、トイレを使用したくなった場合は、

どうなるのだろう。



女性を同伴させているが、その人では、

トイレまで、運ぶことはできない。



当然、乙武をお店の人か、他のお客さんかが、

トイレに運ばなければならないだろう。



一応、同伴の女性が乙武のシモの世話をして

お店にも、他のお客さんにも、迷惑をかけないとしておく。

そうでないと、おぞましい。



最後に、乙武が帰ると言ってきたときを考えてみよう。

もちろん、誰かが乙武を運ばないといけない。



忙しさマックスのお店の人か、親切な他のお客さんか、

どちらかになるだろう。



お店の人が乙武を運んだ場合、

またもや、他のお客さんに、ご迷惑をかけることになる。



他のお客さんが運んだ場合、

そのお客さんが、迷惑を蒙ることになる。



そこまでしてやっと、乙武に満足していただけるのだろう。

だが、果たして、そこまで乙武に他人の自由を侵害する

権利を認められるのか否か、が本質的な問いである。



私見では、まったくないと言える。

他人の迷惑をかけない限りにおいてのみ、

われわれは、自由を行使できるのである。



このケースでは、ひとかけらも認めることはできない。

なぜなら、乙武が自由を行使する前提条件を

満たしていないからだ。



まず、一週間も前に、お店に予約を入れておきながら、

自分のありようを告げていない。



そして、一週間も前に、お店に予約を入れておきながら、

介助の資格を持つ人を用意できていない。

乙武には、それができるはずである。



もしできないと仮定した場合、

上記のようなことが発生するため、

このお店の人に、かくかくの事情でいくことができません、

と断りを入れなければならない。



そして、車イスの問題も重要である。

駐輪禁止の場所であるから、

乙武が料理を楽しんでいる間、

しかるべき場所へ、移動してくれる人も必要である。



それなのに、その条件も満たしていない。

つまり、乙武は自由を行使するためには、

介助の人と車イスを移動してくれる人、が必要だった。



乙武を対等な一人の人間であると認めるがゆえに、

最低でも、これだけの条件を揃えないと、

自由の行使を認めるわけにはいかない。



人間は、同時性(普遍性)と差異(固有性)を併せ持つ。

その差異が、個々人の中で変化するとき、

差別は生じるのである。



差別をなくそうとする側の人間が、

それを「タテマエ」や武器として使用する限り、

常に、差別は「囲い込み」現象が生じてしまう。



「囲い込み」現象とは、差別だと非難・糾弾すればするほど、

ああー怖い、関わりあいたくないや、と敬遠してしまう現象である。



差別を最小化する最良の方法として考えられるのは、

内的モラルとして、捉えられるようにすることだ。



今回、乙武が行った一連の行為は、

まさしく、差別を助長する致命的な行為なのである。

差別を唾棄すべきものと考えている私には、

そこに怒りを覚える。



次は、受験屋として、乙武のブログの採点を試みる。