現代の日本社会は、ハイデガーのいう「気遣い相関」が、

大きく毀損してしまっている。



われわれ人間は、現実世界を生きる中で、

深刻に、悩み、苦しむのだが、その多くが、

人間関係からくるものである。



その関係性をうまくつないでくれることができるものは、

「気遣い」なのである。



それが、大きく損なわれており、

その度合いが増せば増すほど、

息苦しい血縁共同体や地域共同体を

生み出す源泉となる。



われわれ日本人は、日本の長い歴史を振り返ると、

これほどの豊かさと自由を手に出来た時代はなかった。



だから、自由がもたらしている危機に晒されているにも関わらず、

その内実を、直視せず、真剣に考えようとしていないように見える。



高度消費社会とか大衆社会とか、

否定的な名称で呼ばれているが、

西欧諸国でも、我が日本でも、

条件がそろい、自由を手にして、戸惑っている。



西欧諸国にしても、日本にしても、

役割ー配分関係からなる安定した秩序が壊れて以降、

私たち大衆のための、自由が担保されながら、

安心できる安定した社会構造の方向性を持てないでいる。



その原因は挙げればきりがないし、

どれが本質的な問題かも分からない。



ただ一つ、確かなことは、資本主義という新しいルールゲームが、

個人の欲望追及ゲームの性格も持ち、

欲望を追求し続ける中で、血縁共同体ですら、

疎ましく、厄介だから、それも切り離してしまえる自由まで

手に入れることができたことである。



もちろん、現代日本においても、家族や親戚とうまく付き合い、

ご近所さんなどとのつながりを大切にしていることの方が多い。



そうでなくては、日本のいたるところの地域社会が成立しない。

問題は、うまくやっていけない人々がかなりの割合で存在している、

という事実である。



社会の構成因子の原基である家族

子どもたちの安全な場所としての家族

大人の安心できる場所としての家族など。



家族から切り離されてしまった個人

家族を作ることができない個人

所属先すらなくなってしまった個人など。



などのような家族システムの毀損と

個人のありようがその人自身に降り注ぐ状況が現象している。



私たちは、現存在のありようを問われていて、

その逼迫性は、切実なものである。



現代の不安な生活世界の中でどのように生きればいいのか、

もっと言えば、生活世界を私たち大衆が希求する安定して、

安心できる方向はどこなのか、問いを立てた方がよいと考える。