今回からは、地味に進めていく。



まず、先回、確認できたことは、結果的にローマは

ゲルマーニアの直接的な支配は断念して軍を引き揚げ、

今度はライン・ドーナウの国境を固めることに専念するようになった。



ローマにとって、カエサルがガリアをローマ化してゆく中で、

ガリア人の問題は、ゲルマン人の侵入にあり、

それをどうするのかが、本質であった。



実際、ガリア戦記の中で、カエサルはいくどか、

ゲルマン人と戦い、シュバルツバルトの暗い森へと

追い返して、このゲルマン人の侵入問題を、

ライン・ドナウ川を防衛ラインにするように、

同時代のローマ人に諭すように書いている。



ガリア戦記は、ガリア人とゲルマン人の違いを、

宗教、食、文化的なことなど、詳細に記している。



そして、トイトブルグの戦いだけではなく、

いくどかの軍事行動は起こしたが、

結局は、彼の構想したようになった。



つまり、ゲルマン人の侵入を防ぐため

ラインとドナウの間、ラインはいまのボンの南から、

ドナウはいまのレーゲンスブルグの近くまで、

途中でマイン川を越えてえんえんと550キロにわたる、

リーメス(長城的土塁)を築いた。



リーメスは、万里の長城のようなものではなく、

土豪・土塁に木柵が基本である。



だが数は非常に多く、監視塔は一千を越え、

要所要所には兵士が駐屯する城砦が配してあり、

城砦的都市もたくさんあった。



ラインーリーメスードナウの線が、

まずローマの世界とゲルマンの世界を分ける線となる。

だから、古代ローマの研究がさかんなイギリス人は、

ドイツ人をラインの向こうの野蛮人、という。



けれども、現ドイツ国内には、ローマ起源の都市が多数ある。

オーストリアの歴史家ミッテラウアーによれば、

中世「ヨーロッパ」の社会構造の発展を

地域空間と関連づけて考える場合、

次の3つの境界線を頭に入れておくとよい、という。



第一は、ローマ帝国の北方の境界線

第二は、カロリング朝フランク帝国の境界線

第三は、東西両キリスト教世界の境界線



別に彼の独創ではなく、多くの人に共有している

定式化している歴史的常識のようである。



第一の境界線は、375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」によって、

この境界線は、文字通り、ぶっ壊されてしまう。



ローマはパクスを保てなくなり、分割統治や、東西分裂、

西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、

退位させられる(一般的な説)、もしくは、殺害にされたとされる。




『(略)ドイツの歴史とローマ帝国との関係を言えば、

大事なのは今のドイツの一部がローマ帝国領に

なっていたということよりも、



ドイツの地に定住したゲルマン諸部族が、

ローマ帝国の後継国家となったフランク帝国に包摂されたこと、



しかもこのフランク帝国は一種の「教会国家」、

あるいはキリスト教的世界国家と意識された国家であって、



このキリスト教的世界国家としての意識が、

その後ドイツを中心とした「神聖ローマ帝国」に

受け継がれていったこと、



そういう関係においてではないかと私は考えている(略)』

(『ドイツ史10講』坂井榮八郎・岩波新書)



ギリシア・ローマ世界は、ヨーロッパ史の序の口にすぎず、

やはり、中世をよく見てみないと、近代ヨーロッパも

現代ヨーロッパもおそらく理解できない。



イギリス・フランス・ドイツなど個別に追っていても、

全体像は見えないのは、日本史のように、

内部で起こった現象ではないからである。



次回は、フランク帝国に迫る。



ぱくったのは、

『ドイツ史10講』坂井榮八郎・岩波新書