実に面白い考え方で、剰余価値と生産過程、

動因が多様な利用価値、この指摘には唸らされました。

おそらく、当時ならば共感する知識人がさぞ多かったと思います



余剰価値が生産過程に含まれているというマルクスの指摘は、

ちょっと同意しかねます。



生産しても市場がなければ、剰余価値は生まれません。

生まれたところで、局所的なもの、

原始的な形態にとどまるでしょう。



この市場が、普遍交換と普遍分業を生み出しており、

例えば、日本史でいう、古代の市がそれに相当するかに

思われます。



市の歴史も、局所交換から、次第に人々の欲望に従って、

開催日が増え、支那から輸入した貨幣の媒介も増えました。



江戸期にいたっては、貨幣経済の進行とともに、

武士階級の経済的状況は、厳しくなりました。



思い出しますのは、米将軍吉宗です。

彼は、新田開発によって、武士の所得である米を

増産してゆきましたが、結果、増産したがゆえに、

米の市場価値が下がってしまう事態を招きました。



その他の歴史や事象を思い出して、

果たして、生産過程が剰余価値を生むのか、

それについて悩んでいます。



特に、現代のような複雑な経済システムにおいて、

どこで剰余価値が発生するのか、

これは、極めて難問で、共通了解の可能性について

いちいち精査せねばならないでしょう。



つまり、こうした「現われ」について、一度戻って考え直す必要が

あるように思われます。

自分は、欲望ゲームの中の諸関係の全ての局面で、

その「現われ」が生ずると個人的には思考している最中です。



そして、多様な利用価値の欲求についてですが、

とりあえず、生き残ったのは貨幣であり、

この貨幣が多様な利用価値を生み出し、

その絶対性をもってしまった。

だから、そうではない新たな対抗原理がいる

という解釈をさせていただきます。

(誤解をまねくことを覚悟して)



人間の欲望の本質(ほんとう)とは、一体なにであるのか、

この問いなくしては、この問題には取り組めないでしょう。



現象学においては、人間が「ほんとう」を導く可能性の条件は、

関係相関性、可能相関性、エロス相関性の3つです。



この話を展開するのは体力的に困難なので、

とりあえず、人間の「エロス」に着目してみます。



多様な利用価値の欲求は、欲望を蕩尽できる諸可能性と

あえて言い換えて、はて、人間の「エロス」はそんな単純なものであるのか、

いや、そうではなく、相互の関係性から生み出される

共通了解の可能性にこそ、人間の「エロス」であると思います。



ゆえに、自由な公的空間が担保され、

フェアであれば、欲望の諸可能性のルールゲームは

無限の共通了解の可能性を秘めています。



ずれました。



あそちさんの話で、思い出したことは、

旧ソ連において、集団農場のことです。



故高坂先生が著書に書いておられました。

確か、こんな話でした。



集団農場で、毎日、働く人々の夢は、

農場にやってくるトラックの運転手になることでした。



来る日も来る日も、同じような労働に明け暮れていた

そこの人々は、自由に動くことができる

トラックの運転手になりたかったというのです。



生産現場で、このようなモチベーションで働いていては、

飛躍的な拡大再生産は、到底、望めないなーと感じ入りました。



けれども、現代ではそういった状況は、

特定の国にしかみられませんし、

これからは起こらないでしょう。



日本において、面白い状況もあります。

破綻寸前で身売りするところだったのが、

組合ががんばって利益をだし、存続できている

そんな状況もあります。



こんな状況はいいなーと思います。

グローバル化の波に負けないで、

団結してやってゆく姿は、正直美しいと思います。



なんかぐだぐだな返答ですみません。(体力的に厳しいもので)

自分は、哲学が難解な用語を用いていることが

実は大嫌いなのです。(誰もが参加できるゲームなはず)

だから、なるべく平易な物言いで行いたいので、

突っ込まれることを覚悟しております。



こんなぐだぐだな調子で

返答することをご容赦ください。