大阪の桜宮高に端を発した狂騒劇は、

どんどんエスカレートしていっている。



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130130-00000081-spnannex-spo



上記のニュースのように、

女子の柔道界も騒然としているようである。



今、子供たちに調査中なのだが、

かなり学校現場は、混乱中である。



現場は、現在進行形であるので、

このような事態に、直面すると、

文字通り、凍り付いてしまう。



教員の方々は、この魔女狩りがどこまで波及し、

どこで収束するのか、わからないため、

子供への指導を、一旦、留保している模様だ。



内田樹は、ブログでこのように述べている。

(ご自身が、著作物に関して、寛容な方なので・・)



http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php



そう、みなさまの善意が、今ある、「答え」に到達させ、

現状は、誰もが「合意」しないような事態にまで、

発展させたのである。



この先生のご意見では、オレは語っても

たぶんかまわない立場になる。



いくつもの側面から、考察し、現状を語ってきたし、

これからもその複雑な知的操作をやめないだろう。



現場にいる人間ならば、当然のことである。

だれかかれかの責任になすりつけることは、

生きていくのには、とても楽だろう。



しかし、人様の子供を預かる以上、

命に代えても、その未来を切り裂いてやる、

その覚悟がなければ、やれぬ時代である。



そのような悲壮な覚悟を持った、知性のある指導者は、

きっと日本に無数にいる。



その人々は、今回のケースについて、

いったん、自分の考えを留保している。

なぜか、先生の言うように、膨大な知的作業が

必要になり、そのための材料があまりに不足しているからである。



現在のところ、今回のケースの客観条件は、

「一人の生徒が自殺してしまった」になる。



その他、他に出てくる情報は、すべて主観である。

例えば、その子の部活の教師が暴行したからだ、

その教師はもろもろの情報により悪徳三昧であった、



その教師はー、とさまざまに情報が飛び交い、

その全ては、いまだ憶測の域をでない。

多くの情報発信者やその又聞きなど、

すべてに主観というバイアスがかかっているからだ。



主観に過ぎないという点が、その全てに

反論が成立する要件を揃えてしまう。



暴行により自殺した、まずこの前提すら、危うい。

この教師は、それまでにも暴行を行ってきた。

それなのに、それがゆえに、自殺した子は

一人もいないのはなぜか、果たして、全てが

この教師一人の責任なのだろうか、という問いには、

今のところ、主観と主観が生じ、客観条件が成立しない。



関わった人々の全ての証言と事実を

つき合わせて、客観条件が成立するまで、

この事件の全容は見えないし、それからでないと、

その一点だけをとっても、共通了解の領域がない。



だから、わーわーぎゃーぎゃー喚きたて(主観・臆見)、

現場は、凍りつくのである。

どんな主観も正解なのだとしたら、教え手は、

自分に問いかけ、身動きできない。



毎回、事件が起こるたび、善意が悪へと変わる起点になり、

近代社会の要である「公立学校」は、

こんな状態になってしまった。



学校が特権化し、階級化しつつある中で、

それを一層進めようと、みんなでやっている。

これでは、健全な市民社会に致命傷を

与えているようなものだ。



善意あるみなさんは、近代社会以前の状態に

戻したいと、願っておられるのだろうか。



http://blog.tatsuru.com/2013/01/16_1207.php



これもまた先生のブログの記事である。

常に問いで返す、いたってポストモダン的な論理で

描いておられるけれども、これに敢然と反駁できる

人間は、そんなに多くない。



これが現在、日本の知性の限界、

といっては言いすぎだろうか。

ある意味、正しくそして正しくない。



スポーツの指導に関して、いや体育会系が大嫌いであるのは、

自分が、こういう理不尽な暴行が横行しているからだ。



けれども、この種の暴行で、現在の自分を乗り越える、

その契機となっていることもまた、現実に存在する。



物理的暴力と言葉による心理的抑圧、

やってはならないことであることは、当然である。



きちんと理解できるようにお話して、素直に聞き入れてくれて、

「乗り越え」作業を行える子供に対して、

指導者は、何も注文をつけることはない。

それどころか、「乗り越える喜び」を身につけているので、

実に、嬉々としいて、持っているすべてを渡すだろう。



ところが、その他の子供たち、つまり「自己否定の契機」を

もたない、もしくは、もちたくない、そういう存在に、

強制する、という作業は効果的であるのが現状である。



それが、日本のいたるところに、今、ある。

しかも現場は、常に現在進行形だ。

そして有効的であると信じている指導者は、多数に上る。



有効であることを証明していた指導者は、

今、どんどん魔女狩りに会い、刑に処されようとしている。

今までやってきたことの罰であり、

どんどんやれ、と騒ぎ立てる人々は、現場の人間ではまずいない。



それとは別に、子供に殺害されたり、うつになって自殺したりなど

そうした教員が、どんどん増えている中で、

権威を奪われても、闘ってきた教員は、まずほぼ発言しない。

この現状を、凍りついて、怯えて見守っているだけである。



だからこういう状況はまずい。学級が崩壊している空間に入り、

全員を座らせて、きちんと学ばせることができうるものだけが、

物申すことを行うことができる。



この人々を凍りつかせるようでは、現場は崩壊し、

しいては、学校そのものが崩壊してしまう。

結果、日本という構造自体が、フェアなルールなき世界へ

突き進むことを、善意あるみなさんは行っていることだけは、

現場の人間として、きっぱり断言できる。