今回は、思春期の男子について考察する。

現場から見て、既に限界点に近い状況だと

考えてしまうからである。



男児は、小学生低学年までは非常に素直であり、

教え手や母親の言うことを受け取る。



学問に対しても同じであって、

宿題を出しても、ほとんどの男児はちゃんとやってくる。

(中学受験のような非人間的なカタチは困難だが・・)



それが高学年になるとどんどん変わってゆく。

「学び」からの大脱走が始まってゆくのである。



これは時代的に仕方のないことと言ってしまえば、

人間は学ばなければならない、という昔からの

共通了解が消え去り、理性の働く世界が消え去ることを意味する。



人類が営々と知的構造物を積み上げてきたことは

事実であり、その結果、現代日本の豊かな営みがある。



学びから逃走することは、その子供の未来を

安値で叩き売るだけではなく、全体に波及すれば、

人間の営みの様々な分野に大きな変化を与える。



そこまで危惧しなくとも、「学び」の世界にいく子供たちは、

ある一定数は、確実に存在するので、現代文明が滅びることはない。



問題は、男子の場合、「学び」を捨て去り、

かつ、その他もろもろのめんどくさいことや

厄介ごとから逃げ回っている現実にある。



オトナというものは、そういうめんどくさいもの、

やっかいなものを引き受けていく存在である。



それをしない、好きなことだけする、そういう空気が

流れ漂うのが、今の困った現象なのである。



母親には、理解不可能であるのが、男子がよくやる、

めんどいことはなんとか逃げ回り、嘘をつき、

言い訳ばかりして、まったく成長することを求めない点であろう。



安きに流れるのは、これもまた人間の性質の一つであって、

現代のように、さまざまなモノが溢れた時代にあっては、

必然だといわざるをえない。



ネット、Tv、ゲーム、ケータイ、今ではLINEなるものが

登場してきており、進学校の教師は父兄に

その危険性を熱く語っている。

(自分は数日前に知ったばかり・・・)



これらのモノは、「学び」とは正反対の存在であって、

ひどく容易に子供を「学び」から逃走させてしまう。



がしかし、子供を消費者にしてしまったがゆえに、

生じるこうした事態に、危険性を訴え、知ってもらうことは、

現状では、非常に困難であるといわざるをえない。



現代の母親は、非常に忙しく、かつ、孤独であり、

そこまで、見なさい、などといわれるのは、

あんまりではないかと思う。



何も子育ては、かわいいさかりにやるばかりではない。

思春期から、正念場であって、そのときこそ父親や、

周囲のオトコの出番である。



けれども、現実には、父親は忙しい、もしくは、

そんな厄介ごとにはかかわりたくないと

これまた、逃走してしまうことが多い。



ルソーは家庭ですら「合意」がなくては成立しないと述べた。

「合意」が存在しないと、家族ですら壊れてしまう。



共同体の原基である家庭が、現代の中で彷徨っており、

そのありようを個々で模索している。



それでは持たないように思われてならない。

放埓な自由は、標識がない。



今のところ、父親と周囲のオトコたちが、

その標識になってほしいと切に願うばかりである。