そろそろヒステリックな状況から、
抜け出してもいい頃だろう。


脱原発ブームに踊り狂っていても、
われわれは、エネルギー問題から逃げることはできない。


現時点では、原子力発電に代わる代替発電に関しては、
有力な候補は挙がっていない。


そして、未来に向けても、核融合の分野に関しては、
欠かすことのできない研究分野である。


今、アメリカに赴いている安部首相は、
シュールガスの輸入によって、
火力発電のコストを下げようとしていることは、
確かに、現状では現実的ではある。


しかし、Tvや新聞などのマスメディアのいんちき情報しか、
流されていないため、原子力発電に伴う、
放射能の科学的知識について、われわれ大衆は
あまりにも、知らなさ過ぎる。


だがこれも、われわれだけの責任ではなく、
専門家たちもその努力を怠ってきた。


この分野は、なにも意見が分かれることはないはずである。
なぜなら、実証された科学的知見による客観的事実だからである。


客観的事実ならば、共通了解の可能性が揃い、
みなに確信条件が成立するものである。


これまで、広島・長崎という原爆の被害、
そして、いくつかの原子力発電所の事故などにより、
確実な事実が、ちゃんと横たわっている。



今こそ、われわれはこれらの諸事実に真摯に耳を傾け、
原子力発電というものを冷静に見つめなければならない。


もちろん、専門家たちの意見にも主観が入り込んでいる。
主観なきように見せるものは、疑いようもなく間違っている。


リスクというものに対して、他のあらゆる事柄と
同様に接するのは、おかしいといえる。


なぜなら、科学の発展により、その恩恵を受け、
現在の豊かな生活を送っているが、
その全てには、当然ながらリスクが横たわっている。


車、飛行機、電車といった移動手段、
食生活や住様式の変化、
などのあらゆるものに、リスクどころか、
死の危険性は、常に伴っている。


私のようなパニック障害者は、
常に、死の恐怖にさらされている。
死ぬことはないかもしれないが、
その恐怖たるや、恐るべきものである。


しかし、それと共存しなければ、
仕事をしたりといった日々の生活を送ること叶わない。


日本人はどんどん死を遠ざけてきた。
いや、病院が持ち去っていったというほうが、
正鵠を得ているのかもしれない。


われわれは、常に、死と隣り合わせて生きているのである。
その感覚を失ってはいけない。


その感覚を身体に取り入れていれば、
こんな狂騒的な三文芝居は、なかったように思われる。


外部被爆や内部被爆、高線量や低線量などの諸知識を
きちんと学び、その上で、原子力問題を語るべきなのである。


ちなみに、児玉龍彦氏は、どうやら専門家ではなく、
まったくの門外漢だったようであることに驚いた。
武田邦彦氏もお話にならない。


こうした輩の偽情報に惑わされることなく、
きちんとしたその道の専門家に、客観的事実を学ぼうではないか。