男子を授かった場合における「母親の孤独」まで、

前回は、書いた。



この「孤独」、実は案外気づいていない母親が多い。

それは、女性であるために、敏感に察知して、

本能的に回避しているからである。



女性は男性に比べて、圧倒的に他者とつながることが、

巧みであり、家族解体から原子化(アトム)してしまわないように、

だれかかれかとの関係性をいくつも持っている。



それは、近所の友人たちであったり、学校という場で

培った関係であったり、ママ友といわれるものであったり、と

様々な形態をとって、いくつかのバイパスを備えている。



夫は日本では基本的に長時間労働に縛られているため、

決定的な「孤独」に気づいてやれない。



だから、いろいろなバイパスを装備しているのだが、

それは、現代社会における個人にとって、

あまりに脆く、ふとした刹那、切れてしまうものである。



自ら断ち切るケースもあれば、切られるケースもあり、

そういった面においても、農村部における共同体のような

いわば強制的な「集い」と形式のモノがなく、

すぐに排除の言説が、登場して、関係性が断ち切れる。



もしくは、関係性が断ち切れずとも、個人の欲望を満たす

関係性ではなくなってしまい、しかたなくというケースも多い。



そういった様々な諸条件が組み合わさって、

「母親の孤独」が、浮き彫りになり、それを自覚した途端に、

辿るコースは、2つになる。



1つは、大抵の母親に当てはまるが、絶対的な「孤独」に

恐れおののいて、なりふりかまわず、他者を求める行動に出る。



2つめは、きわめて少なくなったが、深遠な自己否定の契機を

初めて持つことが可能となり、自分がいままで持っていた世界像から、

脱皮して、周縁世界の大切さを知り、他者との関係に

本質的な意味合いを読み取ることができる人になる。



1つめのタイプの人は、常に関係性に疼き、

疾しさも何もかも捨てさり、「自由」を本質的な概念から切り離し、

どんどん世界像を縮めてゆく。



知性や理性を自分で抜き取り、時々の感情のみで

日々の行動を行ってしまう。



それがゆえに、いっそう「孤独」の悪い意味での蓋を開け続けてしまう。

女性こそ、もっとも関係性が大切であるにも関わらず・・・。



これは異常事態だといわねばならない。

なぜなら、何百万年も人類は寄り添い、

無償で支え・支えられる関係性の中に生きてきたのに、

ほんの短期間で、こんな状況に置かれたのである。



日本ならば、わずか数十年という恐るべき短期間である。

こんな短期間で、調整できるわけがない。



そのため、様々な場所で関係性に歪が生じ、

日本社会に諸問題を引き起こしているといっても、

過言ではないかもしれない。



放置しておいても、勝手に時間が解決してくれるかもしれない。

けれども、社会ー共同体ー家族、この構成を

保つことができないと、日本人個人が非常に危機にさらされ、

いやもう、その波をたっぷり被りながら、「今」、

しか生きることができない。



もっといえば、現代の日本人女性の大半は、

自己否定の契機を持たなければ、「幸せ」(?)を

手にすることができないと言うことができる。



主題から大きく外れてしまった。

次回は、男子というものを考察する。